連載 社中の心

7月号

第1話 鳥は空を飛ぶ恐竜-手乗りインコの脚は冷たい-

ブーちゃんと呼ぶ手乗りインコは、拙宅を訪ねてくる新聞記者やテレビのカメラマンに愛嬌を振り撒き、日刊紙上に何度も報じられた程すっかり有名になった。拙宅の応接間で、「ぼく、ブーちゃん。ぼく、ブーちゃん」と自己紹介するが、ひとつ不思議な点があった。それは、ブーちゃんが此方の手の平に乗った時、脚が固く、大変に冷たいことであった。

筆者は、塾の普通部でも、進化論の講義をする程に生物学に興味があったが、この冷たいインコの脚の感触は、ただ意外な感覚として記憶に残っただけであった。

「進化論」が思想の変遷に及ぼした影響を考察せよ」という問題を、普通部の卒業試験に出したりする程に、筆者は理屈っぽい人間であったが、まさかこの脚の冷たさに、三億年の生物進化の謎が秘められているなどとは、その時にはまったく思いもかけなかったのである。

事実、中国の医師団が来神した時に、筆者は中国から日本への輸入品に「竜骨」といういわゆる漢方薬があるが、「あれは本当に竜の骨か」と座談会で尋ねて、医師団長を困らせたことがあった。もっとも彼らも強硬で中国は広大で、竜の骨も輸出できる」「のだという回答であった。筆者は一本取ったつもりであったが、その後数年、二十世紀の終り頃には、数億年昔の竜の骨が中国の東北地方で、ぞくぞくと発見されたのである。しかもそのうちには、「羽毛恐竜」という鳥の先祖を考えさせる大変な発見もあったのである。

つまり、三億年の昔、(いわゆる始祖鳥とはまったく別の)鳥の先祖が、鳥の特長である羽毛をもつ有羽恐竜の化石が見つけられたのである。

事実、この二十一世紀になって、鳥類はようやくその先祖をみつけることができたのである。たしかに今日の鳥類も、脚には恐竜の名残を止めて、鱗をもち、肌ざわりも固く、冷たい脚をもつのである。ブーちゃんの脚の冷たさは三億年の歴史を語っているのであった。

8月号

第2話 海かすか見ゆ

塾の医学部の教員二十年。神戸大学に移り、この地に棲む。そのリーディング・マインドは次の一句である。
木の間ぐれ 海かすか見ゆ 水の音千利休は、この一句を口ずさみつつ、堺の高台に樹木を密植して、茶庭をつくった。「茶室外交」のスタートである。
処で拙宅では、茶庭づくりの技術は、作庭の名人、斎藤氏に頼った。庭の前の持主が残した小さな利休燈籠がある。私がそう言うと、斎藤氏は言った。「私は利休にジェラシーを感じます」と。私はますます斎藤氏を信頼するようになった。こうして、茶庭に囲まれた「生活」がはじまった。

日本には世界最古の造園書「作庭記」がある。この十一世紀に書かれた作庭記の存在を、パリ大学の美術の教授、ショエイ夫人から聞いた。彼女は言う。「日本の作庭の千年の歴史を尊敬します。」少しずつ自信を強めつつ、筆者の国際親善―自宅への招待―は自然と強化されていった。

「週末には神戸においでください」というときに、「庭は伝統的です」とつけ加えた。こうして外国からの訪問者のゲストブックは既に二百名を越すサインで埋まっていった。また、筆者も数十回も諸国を訪問することにもなった。

とくに、ささやかなほこりは、竹庭である。すでに二十米を越す数十本の孟宗は、拙宅のプライバシーを守るのに役立った。また職業上のニックネームである「ヤブ医者」を記憶させるのに、まことに好都合であった。

そんなある年、好条件の研究ポストの話が外国から飛び込んできた。第一に「定年」がないこと。第二はサラリーは当時の三倍、前任者は有名なノーベル賞受賞者である。しかし、私は一寸考えて、お断りした。その理由は「日本語で生活したい」からである。こうして、神戸での生活は、茶庭とともに、ながく、ながく、つづくのである。

9月号

第3話 第七陸軍技術研究所の功罪
─第五十七回目の終戦記念日に思う─

私はその時、第七陸軍技術研究所にいた。
それに先立つ昭和二十年三月の空襲で、東京はほとんど焼野原となった。その中で新宿にあった私どもの研究所は無傷のまま残った。「米軍はよく知っている。成果のあがらない研究所は爆撃しない」と、私どもは言いあった。

陸軍は、戦争が拡大してから基礎研究の立遅れを痛感した。各方面の大物学者を顧問に、当時の若手学者を戦場から呼び戻し、この研究所を作ったのであった。
かくて、プロジェクト研究が次々に発足した。そのひとつが(丸け)という暗号名のもとで、陰では「間ぬけの研究」と呼ばれていた。

(丸け)は熱線指向型ロケットで、軍艦などの発する熱を、ロケットの頭についたレンズがとらえ、それを追いかける。アイディアは最新式ロケットと同じであった。しかし精度がわるく、伊豆の初島近くの海上の仮想敵の焚火を狙ったはずが、熱海の旅館の温泉(やはり熱を発する)に飛びこむ、という珍事を起こして「間ぬけの研究」の名を高からしめた。

筆者は中国奥地の野戦病院から、東京新宿の陸軍の研究所に戻ってきた。太平洋戦争末期、昭和十九年九月のことであるが、実は陸軍省の「新薬」の開発研究を行うためであった。
この「新薬」は、東京大学薬学部の落合英二の合成したクリプトシアニン(虹波)という感光色素で、当時重大な問題であったハンセン病の治療(とくに筋麻痺など)に有望だと言われていたが,その作用のメカニズムはほとんど不明であった。

しかし、いろいろと調べてみて、筆者はアセチルコリン(神経ホルモンの一種)の分解酵素に注目するようになった。この酵素反応に、きわめて薄い「虹波」を加えてみると、アセチルコリンの分解は完全にとめられたのである。こうして、虹波はハンセン病の筋麻痺を改善するということにもなるのである。大変幸運な発見であった。

さらに、このような酵素実験により、すでに落合の手許で合成されていた約二〇〇種類以上の化合物についても、その作用との関係を調べあげることができた。終戦まであと数ヶ月の期間であった。これらの研究成績は、終戦直後、米軍に没収され、論文としては発表されていない。
しかしこの研究所には大きな功績が残った。それは、多数の若手科学者を戦場から呼び戻し、戦後の教育と研究の復興に、戦力として残したことであった。

数えあげるなら、田崎一二、冨田恒男、田中重太郎、そして不肖私も、この研究所の措置により、戦後復興への一兵卒として生かされた一人であった。この後、筆者が二系列、三種の新薬を世に送る研究に成功できたのも、この研究所の御陰なのかもしれない、と思うのである。

10月号

第4話(最終話)旧(ふる)きを創(つく)る
─時間と空間を超えた開発を─

筆者らは、非常に幸運にも、三種のかなり大型の──合計すれば年商百億を持続する──新薬を世に送ることができた。

終戦直後から始まった筆者らの研究は,組織面からみると、当初から「産学協同」という、当時としては新しい形態をとっていた。このことによって、研究は専門を越えた「学際的」なものになった。しかし筆者は、テーマの選択では、迷いに迷った。それを決めたのは、実に深夜の上野駅だった。

山手線の深夜の電車を降り、改札口に向う途中、妻、岡本歌子が急に言い出した。「一九四二年にフランクフルトのMaschmannが書いたドイツ語の論文を先日読んだ、タンパク分解酵素に特異的な阻害物質がある、と書いている」というのである。筆者はこれだと確信した。
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タンパク分解酵素のひとつにプラスミンがある。その阻害物質を追究すると言うのである。注射器で血管から採られた血液は、試験管に移されると、ジェリー状に固まってしまう。この際凝固する主役が「フィブリノーゲン」というタンパク質である。

普通の血液では、その濃度は〇・二~〇・四%であるが、非常に変動しやすく、細菌感染などが起きると数倍になる。では、炎症の際などにこのタンパク質はどんな働きをするのか、古くから多くの研究者が注目する課題であった。有力な見方は、このタンパク質が細菌の閉じ込めに役立つ、ということであった。

一九四六年にオックスフォードのMacFarlaneらは、フィブリノーゲンを急速に分解してしまう酵素を発見、プラスミンと名付けた。このプラスミンの作用により、フィブリノーゲンが著しく減少すると、致死的な大出血が起きるという。これを避けるために、「プラスミンの抑制物質」をさがす、ということが、私どもの長期にわたるプロジェクトの目標であった。こうして約三〇〇種の物質が調べられた。
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時は流れた。プラスミンの医学的意味は、合成抗プラスミン物質(筆者らのEACA及びAMCHA)の作用から、逆に明らかにされた。

とくに慶大医の佐藤彰一らによって予想外の発展があった。たとえば、妊娠の末期ならびに月経時にプラスミンが著しく活性化され、EACAおよびAMCHAの投与により、その際の出血がみごとにコントロールされた。またこの成績は数年後にオックスフォード等でも追試確認されている。

現在、さらに、筆者らによる抗トロンビン剤の開発が進行しつつあるが、福澤諭吉の「旧きを創る」というテーゼは再び確認されつつある、としても過言ではない。
(連載終了)