黄 耀庭
(昭29経)
2008年7月号~
私は昭和六年(1931)、当時は日本の統治下にあった台湾で生まれ、生後七ヵ月目に両親に連れられて神戸に来ました。
慶應義塾大学に入学したのは昭和二十五年(1950)。その頃の日吉キャンパスでは進駐軍のカマボコ兵舎を使い、そこで授業を受けたことを憶えています。
入学して間もなく、塾で共に学んでいる中国出身の人たちと、お互いに親しくすべきだという思いにかられました。なぜそういう思いを抱いたのかというと、そこには私が受けた民族教育の影響とでもいうべきものがあったからです。
終戦の翌年、昭和二十一年(1946)四月、私は父によってなかば強制的に、これまで通っていた神戸二中から神戸中華同文学校に転校させられました。戦争中には一切口にしなかったのですが、父には中国人としての強烈な民族意識があったのです。だから私の大学進学も北京でということでした。同文学校には一年半通いましたが、結局中国での政情が不安定となったため北京での大学進学は取り止め、神戸二中に復学しました。
同文学校で私は、中国語や中国の歴史などを学ぶことを通して民族教育を受けたのです。感受性の強い少年時代に強固な民族意識が培われ、中国人としての自覚と誇りを持つことができました。そういう民族意識があったので、私は塾においても同胞同士が親しく交流する必要性を強く感じていたのです。
そこで神戸出身の李文振さん、王紹興さんの助言によって、三田キャンパスの塾監局に相談しました。留学生の名前を教えてもらい、また、教授のどなたかに会の代表をお願いしたい旨も申し入れました。当時、塾で中国人留学生の数が最も多かったのは医学部で、すでに医学部だけの中国人留学生の会がありました。私が相談したのは、後に東京で開業医をされた王鉄城さん(写真前列右端)。プロ野球界で活躍中の王貞治監督のお兄さんです。全学部にわたった会をつくりたいという私の提案に対して、即座に賛成してくれました。
また会の代表は法学部長にも就かれた及川恒忠教授(写真前列右から四人目)。及川教授は大正二年(1913)に慶應義塾大学部政治科を卒業、義塾留学生として中国留学の経験があり、法学部機関誌『法学研究』の創刊にも尽力、中国現代史研究の第一人者でした。その及川教授に二つ返事で会長就任の快諾をいただいた。嬉しかったです。
こうして昭和二十七年(1952)初秋、「慶應中国同学会」の発会式を開き、活動を始めました。活動の『目玉』は週に一回、放課後に開いた中国語講座。外国語講座は塾はじまって以来の画期的なことで、これも及川教授のお蔭です。
ところが何をやるにしても資金が必要です。どうやって集めるか?そこで眼をつけたのが、その頃流行のダンス。ダンスパーティをやって資金を集めてみよう!そう考えました。会場は、当時米軍の将校らがサロンとして使っていた目黒の雅叙園の最上階にあったホール。バンドは専属の東京キューバン・ボーイズ、それと松井トリオ・ジャズバンド。シンガーは黒田美治、そしてまだ駆け出しだったペギー葉山。
当日は満員で大成功でした。
民族教育に裏打ちされた同学会での活動は、今も私の青春時代の貴重な思い出になっています。
(2008年6月号掲載)
(つづく)
日本と中国の交流には千数百年の歴史があります。その中には意外な事実も多く、赤穂47士の一人、武林唯七が孟子の63代目に当たる中国人三世だった─という事実が確認され、NHKテレビの「歴史ドキュメント」で紹介されたということもありました。
ところで私はこの連載の第一回に、今日の私があるのは神戸中華同文学校(以下、同文学校)で学んだ民族教育のお蔭だということを書きましたが、神戸における日中交流を考えるときに、同文学校を抜きにしては語ることができないと思います。
同文学校の創立は1899年。当時、中国は清の時代です。その清朝末期には海外に逃れる亡命政治家が多かったのですが、その中に有名な梁啓超(1873~1929)がいました。彼は1年に亡命、横浜に来ますが、翌年来神。五月に中華会館で華僑の子弟教育の重要性と華僑学校の建設を提唱しました。このときをもって同文学校の創立年としています。校舎が落成したのは翌1900年。3月1日に開校式が行なわれました。このとき名誉校長に就任したのが、梁啓超や孫文を支援し、華僑からの信頼が厚かったのちの首相、犬養毅(1855~1932)でした。開校式当日、犬養は演説の中で「余は唯熱心に日清両国民の親和結合を望むこと久し故を以て(中略)此同文学校長として其職任に當りたるなり」(大阪朝日新聞の記事より)と述べています。在任期間は1900年から1904年まででした。
私が同文学校の理事長をしていた1999年に創立100周年記念行事を開催しましたが、式典には、犬養毅の孫、犬養康彦さん(元・共同通信社社長)と、同じく梁啓超の孫、梁従誡さん(元・北京大学教授、歴史学者)も出席されました。
同じ年、福岡ダイエーホークス(当時)が日本一に輝きました。球団オーナーは神戸と縁の深い中内功さんです。それで翌年1月に神戸の政財界が中心になって王貞治監督を神戸に招き、祝う会が開かれました。このとき王監督に同文学校に来校いただき、生徒の前で話をしてもらいました。「言葉は非常に大切。ここで中国語をマスターし、日本語と中国語を生かし、日中の架け橋となって両国の友好と地域社会のために役立って欲しい」という話が強く記憶に残っています。
同文学校は、その設立目的の中に、教育を通して日中友好及び地域社会に貢献できる人材の育成をうたっています。また小一から中三までの9年間の授業や規律は非常に厳しく、労働の価値を教えるために、始業前と放課後に校舎内外の清掃が日課になっています。県下の有名公立私立高校への進学率もよく、その教育内容は日本の教育関係者によって高く評価されています。
今年、1978年8月に締結された日中平和友好条約が満30年を迎えました。また「日中青少年友好交流年」でもあります。国同士がお互いの友好を深めるためには、次代を担う青少年の交流が大切です。その意味においても同文学校の歴史は日中友好の歴史でもあり、卒業後、日中友好のために尽力した人、日本のトップ企業で日中の「架け橋」として活躍している人たちなどが大勢います。ちなみに1972年9月に北京で田中角栄と周恩来が日中共同声明を出したとき、周恩来の通訳をした林麗さん同文学校の卒業生です。
神戸中華同文学校は神戸の華僑の誇りであり、また象徴でもあり、子々孫々までその建学精神が継承されていって欲しいと願っています。
八月八日から二十四日まで、十七日間にわたって北京オリンピックが開催されました。
私は、八日午後八時から国家体育場(愛称・鳥の巣)で行なわれた開会式に招待されて出席、次々と眼前に繰り広げられる華麗な式典に感動を覚えて帰ってきました。
とくに印象深かったのは、日本選手団の入場のとき。観客が総立ちになって拍手で迎えました。これには当の選手団もびっくりしたようです。四川大地震のときに救援隊を送ってくれた日本への感謝の気持ちの表れです。これが本当の日中友好だと思いました。
なぜ私が開会式に招待されたかといいますと、昨年の九月十四日から十七日まで神戸(十四~十六日)と大阪(十七日)で開催された「第九回世界華商大会」で組織委員会主席を務めたからでしょう。お蔭様で多くの方々からご協力をいただき、大会を成功裡に無事終えることができましたが、その労に対しての中国側からの「ご褒美」だと思っています。
この世界華商大会はシンガポールのリー・クアンユー元首相が提唱。世界中に散在する華僑・華人のネットワークの強化と華僑経済の活性化、さらに開催国の経済的発展に寄与することを目的に一九九一年八月、第一回がシンガポールで開かれました。以降、隔年で香港、バンコク、バンクーバー、メルボルン、南京、クアラルンプール、ソウルと続き、昨年、念願の神戸開催となったのです。
大会前年の二〇〇六年四月二十五日、北京の釣魚台迎賓館で中国内外の記者約百名を集めてプレス発表をやりました。その質疑応答で、これまではすべて首都圏で開かれているのに、日本ではなぜ神戸でやるのかという質問が出ました。それに対して、こう答えました。
一九九五年の阪神・淡路大震災のときに神戸は、世界中から支援を受けました。もちろん華僑・華商からもです。そのお礼の意味と復興した神戸のまちを見て欲しいということ。これは神戸を世界に広く知らしめることにもなります。また神戸には華僑との間に一四〇年にもわたる歴史がある。そして神戸は世界の華僑・華人が「国父」として尊敬している孫文(1866~1925)と縁の深い土地だということです。孫文は十八回も神戸を訪れ、地元の政財界が彼を支援しました。初めて訪日したのも、また最後に離日したのも神戸です。垂水区にある「孫文記念館(移情閣)」は孫文を顕彰する国内唯一の博物館ですが、世界中でも神戸を入れて三箇所しかありません。
大会の神戸誘致には行政も熱心で、兵庫県、神戸市、神戸商工会議所、神戸華僑総会が発起人となって「地元協力会」が発足、大会を盛り上げようと一般の人も参加できるいろいろな行事の主催、協賛、後援をやりました。大会には約三六〇〇人が参加しましたが、そのうち二千数百人が海外からでした。
第九回世界華商大会のテーマは「和」。「和解」の社会をつくろうと、二〇〇五年に神戸開催が決まったときに決めました。
ところが思いもかけず、この「和」が北京オリンピックの開会式にも登場したのです。中国の歴史と発明をテーマにしたアトラクションのなかで、活版印刷の巨大な活字群が登場。そのなかで「和」の文字が表示されました。期せずして世界華商大会、北京オリンピックで「和」ということが全世界に向けて力強くアピールされたのです。
私は今、深まる秋の神戸で「和」に象徴される日中友好、さらに世界平和ということについて、改めて思いを巡らせています。
(なお第九回世界華商大会につきましては、神戸慶應倶楽部の瀬戸雄三顧問のお取り計らいにより、大会スポンサーとしてアサヒビール(株)、アサヒ飲料(株)より多大なご協力をいただきました。ここに誌面を借りまして御礼を申し上げます。)
日本と中国との友好と交流をテーマにしてきた私の連載も最終回となりました。
ところで日本と中国とはどちらも漢字を用いているので、「同文同種」といわれることがあります。しかし実際には習慣や考え方に随分と違いがあると思います。
まず「あいさつ」。日本人の場合、たとえば「いい気候になりましたね」「今日は、あいにくの空模様ですね」など季節や天気の話題から入ることが多い。しかし中国人は違います。いきなり「今日、食べたか?」。かつて中国では長年にわたって庶民は貧しい生活を余儀なくされていました。今日が暑いか、寒いかなんてどうでもいい。とにかく食べることが最優先でした。その名残だと思います。今朝も母親から電話がありました。もちろん第一声は「食べたか!」。
次に「水に流す」。日本では「水に流す」といって過去を故意に忘れるか、不問に付すことがあります。しかし中国では違います。過去は忘れるものではなく、現在、未来へとつなげていくものという意識が強く、それゆえ常に歴史を重んじます。だから中国語には日本でいう「水に流す」という意味の表現はありません。
また「水」自体に関する認識も違っています。日本は水資源に恵まれてきました。しかし中国では、揚子江や黄河流域などの一部を除いて、乾燥した地域が多い。水は貴重品でした。以前は風呂に入るのも一週間に一回ていど。通常は手足と顔を拭くぐらい。私は今でも水道の蛇口から水が出っ放しになっているのを見ると、どこであろうと栓を締めまわっています。
次は「以心伝心」。日本人には、お互いに気心が知れてくると、ことさら言葉にしなくても自分の考えが相手に通じると思い勝ちですが、そういうことは中国人にはありません。中国では過酷な歴史が続いたために、隣の人が何をしようが自分には関係がない。とにかく自分さえ生きていければいい、という意識が培われました。そういった歴史のなかから必然的に強い自己主張が生まれたのです。はっきり言わないと相手に通じないし、言われないうちは相手の考えを知ろうとしない。だから日本では、とくに意識しないまま他の人と同じ考え方や行動をとる人が多いですが、こういったことは中国ではあまり見受けられません。
中国には「落葉帰根 落地生根」という言葉があります。前者は、他所の国で成功しても、いずれは自国に帰って骨を埋める、という意味。いわば故郷に錦を飾るということです。後者は、自分が今働き生活をしている土地に骨を埋めることです。日本人は前者、中国人は後者だと思います。中国人は、その土地で懸命に働いて、その土地の人間として一生を終える。神戸の華僑がそうです。その土地に骨を埋める覚悟があるので、地域への貢献や子弟教育にも力を注ぎます。
これに関連して「十年樹木 百年樹人」という言葉もあります。十年先のことを考えるなら木を育てなさい、百年先のことを考えるなら人を育てなさい、という意味です。神戸の華僑が子弟教育のために、神戸中華同文学校を設立したのも、まさにこの精神だと思っています。その土地に根づく「落地生根」を旨とする以上、華僑社会と自分たちが生活を営む地域社会の発展を担う次代の人材育成の重要性は、何ものにも替えがたいものです。
私は日ごろから「真誠相待」という言葉を座右の銘にしています。これは真心、思いやりの心で人に接するということです。相手の立場に立って相手の気持ちを考える。そうすれば相手もこちらを理解しようと歩み寄ってくれる。お互いに習慣や考え方の違いを認め合うことから本当の相互理解が生まれ、交流が始まります。こういう気持ちがあれば争い事は起きません。日本と中国との関係もそうです。しかしそのためには日々の努力も必要です。私はこれからも日々精進し、日中友好のために少しでもお役に立てればと思っております。
(終わり)