浅沼 清之
(昭和36年 経)
2007年6月号~
私は、一九五九年春に経済学部の三年生となり、日吉から三田へ、そして、川田寿先生のゼミに入会することになった。
このゼミを選択した理由は、まず第一に、先生の学生選別の基準が、様々な性格を持つ者を、できるだけ幅広く受け入れたいと、考えておられたことであった。地方出身者と都会出身者、根っからの慶應ボーイと外部からの入学者、Aの数の多い学生と、成績にそれ程拘らない学生、体育会系と文連系、無所属系、といった具合に、できるだけ多様なタイプの縮図を望んでおられた、つまり、異なるタイプの人間の交流が、民主社会の必要条件であると考えておられたことであった。
二番目の選択の理由は、先生の日吉の自宅を、学生達と卒業生の為に開放して、オープン・ハウス・デーを設け、交流の場を心がけておられたことである。
三番目の理由は、入会の為の試験がなく、先輩に、話し合いや面接をさせたこと、そして、卒論のテーマは自分の取り上げたい課題を自由に決められる、ということであった。入会の前に、先輩から、このような話を伺っていたこともあり、躊躇なく川田ゼミに入会させていただくことにした。
戦前のアメリカ生活が長かった川田先生は労働問題を専攻され、机上の学問ではなく、企業活動の実証研究の裏付けを踏まえて、労使関係を学ぶことを重視され、学生達にも、実態調査の実践を求められた。ペンシルバニア大学ウォートン・スクールで、修士課程を修了、ニューヨークを中心に労働運動を実践、研究された経験を持っておられ、帰国後、出身地の茨城地方労働委員会会長や、東京都労働委員会事務局長に就任された時期もある。
また、先生の戦前の学生運動での活動ぶりや、筋を曲げない信念を熟知していた革新陣営から、茨城県知事選出馬を懇請され、立候補し、混戦、決戦投票の末、僅差で次点に終わった経緯もある。慶應義塾の教職に就かれたのは、一九五一年であるが、故・藤林敬三経済学部教授(三井三池争議の時代の中央労働委員会委員長)と親交があった関係で、労働問題実証研究の目的で慶應義塾に設立された研究所「産業研究所」で、藤林教授の右腕となって協力された。
藤林教授急逝(一九六一年)後、このようなご縁から、藤林ゼミの学生が、川田ゼミに割り振られたという歴史もある。川田先生のように、アメリカの労働問題の真髄を、自分の皮膚で体験した学者は、日本では非常に少ないという評価であったと認識している。
ゼミの勉強もさることながら、私にとって何よりも想い出深いのは、先生ご夫妻の日吉山荘を訪れる、オープン・ハウス・デーであった。先生との談論風発の中から啓発され、薫陶を受けると同時に、アメリカで苦楽を共にされた奥様の、お手製のご馳走に毎回ありつけることが、当時の下宿学生にとっては、大変有難く、大きな楽しみの一つであった。子供のいないご夫妻は、私達学生を心から歓迎して下さり、寛大さと包容力をもって、ヒューマン・リレーションの大切さを教え、実践されたのだと思う。
教室での授業を離れて行う山小屋での合宿は、私の時代は、上高地や立山で行ったのであるが、教授夫人も参加して、学生達と交流する例は、あまりないのではないかと思う。ゼミの諸先輩、後輩の皆様と、今でも親しくお付き合い願えるのは、ご夫妻の意図された、交流の場、日吉山荘のお陰であると思っている。ゼミの卒業生で構成される五百人を超える「川田会」の交流は、ご夫妻の人格や生き方が、脈々と源流となり、余徳の輪を広げているように思われる。川田先生の指導を受けた島田ゼミや、孫ゼミに当たる清家ゼミの卒業生も、一部、交流の輪に加わっている。
先生の生き方は「己を尊び人を愛す」という言葉で残されているが、私達はご夫妻との対話の中で、人格や生き方について、特段、何か説教じみたことを言われた覚えはない。学生達の意見に対して、否定的な言辞も聞かされた記憶も無い。どんな話題にも耳を傾け、後から意見を言われた姿が目に浮かぶ。「己を尊び」という言葉は、自らに厳しく、自立、自律、自尊をもって行動するという、先生の強い思いであったと理解している。
茨城県にある川田家の墓所には、ご夫妻の墓碑があり、「川田寿1905-1979・川田定子1909-1999」と刻まれ、裏側に先生の経歴が書かれている。奥様の納骨式の日に、川田会として建立した石碑があり、「己を尊び人を愛す」と記されている。節目の墓参には、毎回、多数の川田会会員が参列している。
(2007年6月号掲載)
(つづく)
川田寿先生ご夫妻の足跡に思いを巡らす時、私達は、先生が学生に囲まれて心豊かに過ごされた後半生の姿を思い起こすことが多いのであるが、前半生は若くして慶應義塾に学び、先鋭的な革新派であったと聞く。
軍国主義に傾く日本の体制を批判し、労働者の権利の擁護と、反戦の為の戦いの日々であったと推察される。日本で思想弾圧が始まる時期に、事実上の亡命を余儀なくされ、渡米し、ペンシルバニア大学に学んで卒業後、アメリカの労働運動に身を投じた。その時期に定子夫人とも結ばれている。日米開戦の直前に、日本に帰国し、その後、戦時下のいわゆる横浜事件に連座され、治安維持法のもとで、でっち上げの言論弾圧を受けた。そのため、ご夫妻が獄中で悲惨な体験をされたことを卒業後初めて知った。横浜事件の凄まじい証しを身体に刻まれながら、その悲惨な体験を学生達に語ることは一切無く、後半生において、人間不信に陥ることなく、ゼミ学生を自分の宝物の如く大切にされた姿は畏敬するのみである。
敗戦後、釈放され慶應義塾に席を置かれたのが、一九五一年であった。川田先生の国際交流の手法や、学生指導、研究の姿勢に到るまで、当時の慶應義塾の中では、極めて個性的(異端)であるという評価であったと聞く。
今にして思えば、新しい日本を支える若者達の教育に専念したい、という新たな気持から、時代の先取りを意図されたのかもしれない。当時の私達学生にとっては、インパクトの強い指導者であったという思いが強い。
フォーマルな講義よりも、波乱に富んだ人生を通じて身につけた信念が、教育者としての姿勢の基本になっていたのだと思う。そのような先生に寄り添って、支えてこられた奥様も、学生にとって日吉山荘や山小屋合宿では欠かせない優しい存在であったし、終戦までのご苦労を全く感じさせることは無かった。 修羅場を経てこられたにもかかわらず、温厚で、優しい仏様のような境地になっておられた。
先生亡き後、奥様は南紀白浜の協栄年金ホームをご自分で充分に調査し、現地検分もされた結果、入居されることになるが、その際の決断や諸々の対応を通じて、真に自立した人間の姿を、私達に示していただいたと感じている。戦前の昭和初期に、女独りでアメリカに渡り、川田先生との運命的な出会い、共に過ごした滞米時代の特異な経験、そして日本へ帰国後の激動期の過酷な体験を心に秘めたまま、白浜海岸の散策や風景画の製作に楽しみを見出すなど、静かな時の流れに身をおかれた。
川田会のメンバーが、交代で慰問旅行を企画することになり、私も何度か白浜をお訪ねしたが、私達の訪問時間を待ちきれず、年金ホームの玄関に早くから立って、出迎えていただいた姿に胸が熱くなる思いであった。
喜寿や傘寿のお祝いに、白浜から東京のホテルにお連れしたり、米寿、卒寿祝いを白浜で開いたりして喜んでいただいたのであるが、他のゼミでは例が無いかもしれない。川田ゼミのシンボル的存在であった日吉山荘の処分に当たっても、新しい所有者の配慮と川田会会員の協力のお陰で、ほとんど昔のままの姿で残っている。慶應グランド上の桜を眺めながら花見の宴を楽しんだ想い出深い場所である。売却の後、五百万ものお金を奥様から川田会に寄託されている。一九九九年六月に思いもかけず急逝されたが、川田会の総会に併せて開催した追悼会には、百人を超える会員が出席し故人をお偲びした。
二十世紀初頭から末までの時代を生きた先生ご夫妻の人生は、私達の心から消えることは無い。
(2007年7月号掲載)
(つづく)
二〇〇五年七月九日に、川田寿先生生誕百年記念パーティーが、卒業生で組織する「川田会」の企画として、盛大に実施されたが、先生の現役時代を支えた諸先輩やゼミ卒業生等、二百名程が先生の人柄を偲んで出席した。教え子である島田晴雄経済学部教授(当時の内閣府特命顧問)の記念講演や、式典に参加した五十代後半、六十代、七十代の卒業生に共通した想いは、川田先生の人間愛と学恩に対する感謝の気持であったと思うし、翌日実施した茨城県への墓参バス・ツァーへの多数の参加者からもその気持が窺える。
学生達の個性、人間性を尊重する先生の一貫した姿勢が、先生没後の川田会の先輩後輩の交流に生きていることを実感している。五百人を超える卒業生には、銀時計組から卒業単位すれすれ組、有名人から無名人、大金持から普通人まで多士済々であるが、交流に居心地の良さを感じるのは、平等と個性の尊重が共通しているからだと思われる。
川田会の運営は、機関紙や名簿の発行の他に、先生の命日に合せた総会の開催、OBセミナーと種々の同好会、海外交流等を中心に、会員相互の研鑽、交流を図っている。これまで開催されたセミナーを振り返ると、実施回数百数十回に及び、竹中平蔵さんや石原展晃さん等も過去の講師に名を連ねている。海外交流の第一回目は、一九九五年四月の、慶應ニューヨーク校訪問と、初代の二瓶校長(川田会OB)との交流であった。二瓶校長の案内で構内を見学し、桜の木銘板を川田会として贈呈した。校庭の美しい桜が印象に残っている。
ニューヨーク川田会との交流は、市内の由緒ある「ユニバースティー・クラブ」で開催したが、和やかな歓談のひと時であった。ボストンやナイアガラに立ち寄って帰国した。二回目は、翌年一九九六年四月に、イタリアのコモ在住OBとの交流を兼ねて、北イタリア旅行を実施している。私は参加できなかったが、コモ、ミラノ、フィレンツェ、ベニス方面を訪ねている。三回目一九九八年八月の、南イタリア旅行には参加でき、ローマ、ナポリ、ポンペイ、パレルモ、アグリジェント等を巡る旅となった。四回目は二〇〇〇年八月に、イタリア北西部と南フランスを訪ねる旅に参加した。チェルビニアやアオスタ等に宿泊し、マッターホルンの展望や、ツール・ド・モンブランの一部をハイキングする山旅となった。
後半は、ニース、マルセーユ、アルルなどの都会を巡る旅である。五回目二〇〇一年十二月にはニュージーランド在住会員との交流を実施している。川田会会員が経営する南島クイーンズタウンにある、ミルブルック・カントリークラブのリゾートホテルに滞在し、ゴルフ等会員相互の交流、渓谷美で有名なミルフォード・サウンドやマウント・クックに足を伸ばす企画であった。帰路、北島オークランドにも立ち寄り、現地在住の会員とも、久しぶりの対面であった。六回目は二〇〇三年八月に、南仏アルプスの山旅に参加した。モンブランを最北にニース方面に続く、フランスアルプスの山々、ヴァノアーズ、エクラン山群の山旅である。この山群を結ぶ交通機関は無く、レンタカーしかない。左ハンドルのマニュアルに苦労したり、登山基地の山村にはシャワーしか無く、ニースのホテルに着いて、ほっとしたことが懐かしい。
八回目二〇〇五年八月には、ヨーロッバ・アルプスの最高峰モンテローザを東・南東側から眺める為に、アラーニャ・マクニャーガに滞在し、山歩きと展望を試みる企画に参加した。後半は、ミラノ、ジェノヴァ、ピサ、ポルトフィーノ等の都会巡りをして帰国している。同好会活動については、ゴルフ、スキー、山歩き等が活動の中心になっている。ゴルフついては、奥様名をカップに頂いての「定子杯」が定例化され、参加者は年々多くなっている。スキーは、年一回は海外スキー、もう一回は国内で定例化されている。
私もお蔭様で、ここ十年くらいの間に、ヨーロッパ、アメリカ、カナダのかなりのスキー場に行く機会に恵まれている。国内の山歩きは、川田会のワンゲルOBが、世話人の中心で、慶應ワンゲルの三国山荘での合宿が定着しつつある。ここに宿泊してみると、ワンゲルOB結束の本拠であることがよく分かった。
これ以外の活動としては、地方川田会の交歓も一つの課題となっており、現在は、関西と名古屋がOBセミナーやゴルフで、年一回程度、在京会員とも交歓している。
川田先生ご夫妻の余徳の輪が広がり、卒業生の多彩な経歴を活かして、今後も有意義な交流の場であることを願っている。
(2007年8月号掲載)
(終わり)