平成11年(1999)11月7日、「1999関西合同三田会」(神戸慶應倶楽部担当)が神戸ハーバーランドにおいて開催されました。 第1部の会場は松方ホール。上島神戸慶應倶楽部会長の歓迎の言葉に続き、小林関西合同三田会会長挨拶、服部慶應連合三田会会長祝辞、長島常任理事による塾の近況報告がなされました。また鳥居塾長は、パソコンのプレゼンテーションソフトを利用して講演をされました。スクリーンには戦時中大きな被害を被った医学部校舎や三田図書館の姿、また福澤先生が維新前にグーテンベルク聖書を閲覧するためにサンクトペテルブルグ図書館に入館した記帳簿のサインの写 しが拡大実写されるなど、時空を超えた臨場感溢れる説明に会場から感嘆の声がわき上がりました。
第2部は神戸港をクルー ズする港内観光船コンチェルトを借り切って行われました。三色旗でデコレーションされた同船では、神戸の海と山を満喫しつつ、八つの部屋に分かれての会食となりましたが、鳥居塾長はそれ ぞれの船室を順番にお訪ねになり、親しく歓談されました。生ビールとコーヒーが用意された屋上デッキも、瀬戸大橋が近づくにつれ大盛況。午後2時30分、無事に船は接岸。帰り道には阪急百貨店ハーバーランド店で開催された「慶應義塾写 真展~時は過ぎゆく~」に立ち寄る方も多く見られました。
今日は、我々が誇りに思っている母校の歴史、今と将来の計画をスクリーンを使って説明いたします。
まず、輝かしい歴史の中で「慶應義塾」の名前の由来から申し上げます。幕末、孝明天皇の御代(1848~1868年)寛永、安政、万延、文久、元治と年号が変わり、1865年慶應となりましたが、それは「慶雲應輝」(慶びの雲が我らの存在に応じて輝く、つまり天が我々の存在を寿いでくれる)という誇るべき意味を持った名前であり、義塾は英国のパブリックスクール――社会のエリートを教育するため社会の有志が力を出し合って運営する私立学校――の中国での訳語を当てたものであります。
明治4年には校地が芝新銭座から三田に移り、元中津藩主・奥平昌邁公が入塾され、アメリカ留学に際し、当時の塾長の小幡甚三郎氏を随行されましたが、惜しくも小幡氏はニューヨークで亡くなられ、郊外の共同墓地に埋葬されておられます。現在ニューヨーク校の諸君がこの墓地を清掃し、生徒達もお盆、お彼岸のしきたりを身につけるためにも墓参をしてくれています。先生はこのころ明治3年~8年にかけて金沢、大阪、京都、徳島と慶應義塾を作られておられます。
また、先生は咸臨丸で渡米された後、文久元年末から2年(1862年)にかけて渡欧しておられフランス、イギリス、ドイツ、ロシアと回られましたが、その土産として1.立憲君主制の政治システム(憲政)2.学校のシステム(パブリックスクール、義塾)3.新聞論説(時事新報)4.社交クラブ(知識、意見を交換し詢<はか>る場、交詢社)を持ち帰り実現されましたが、これらは今も将来も日本にとってとても重要なものと思います。ロシアのセント・ペテルスブルクでは図書館でグーテンベルク聖書をご覧になっておられ、その証拠に入館のサインが残っており、和英の両サインとも非常な達筆です。この10年後、岩倉具視、大久保利通 、伊藤博文らが岩倉使節団として、明治新政府の閣僚の大多数を引き連れ632日間、明治4年から6年までアメリカ、ヨーロッパを視察に行き、当時、日本の状況とよく似たドイツの政治モデル――皇帝を中心として官僚が専制をし、憲法も持たない――を持ち帰りました。
先生は英国の政治モデル――憲法を制定し、国王を中心に議会が内閣をコントロールする――を理想とし、明治政府とは鋭い意見の対立を見、ついに明治14年の政変を迎えて、約150名の塾出身の上級官僚の多数が解職されました。
時代をとばしまして、戦争の頃の塾について今日ご出席の半分ぐらいの方はご存知でしょうが、重要文化財になっている三田の図書館も直撃弾を受けてバラバラになり、昭和9年に開かれた日吉キャンパスも戦争中は連合艦隊総司令部に接収され、戦後、昭和24年までアメリカの主力部隊第八軍のキャンプになりカマボコ兵舎がズラッと並んでいました。マッカーサーの副官であったリッジウェー将軍の尽力により平和条約発効の2年前に返還されました。信濃町の医学部も壊滅的な打撃を受け、60%あまりの建物が消失しました。
次に塾は創立75、100、125年の3回大きな式典を行っています。
創立75周年は昭和7年(1932年)5月9日に三田にあった大講堂で秩父宮殿下と塾出身の犬養首相をお迎えして盛大に開かれましたが、お祝いの最後に五・一五事件が起こり首相は暗殺され、戦前の政党政治も終わりました。
創立100周年は昭和33年(1958年)に日吉で開かれました。31年から始まった募金は当初なかなか集まりませんでしたが、天皇の行幸が発表されますと、順調に進み、日吉の記念館や校舎を建てることができました。
創立125周年は昭和58年(1983年)に開かれ、多くの塾員が世間が驚くほどの募金を集めてくださり医学部病院、湘南藤沢キャンパスを造り、工学部の移転をすることができました。あと9年後の2008年には創立150周年を迎えます。
今、塾はどんどん変わっています。新しい姿をご覧いただきたいと 思います。
湘南藤沢キャンパスでは、 今までの学問の専門分野だけでなく、総合的アプローチにより学生と一緒に直面 する問題を解決し 、勉強することがおもしろいキャンパスになりつつあります。三田の図書館では本や論文を探すのにカードではなく、コンピューターで行えるように変わりました。日吉では古い建物を補修し、内容の充実を図っております。また17面 あるグラウンドの他に射撃場や馬場、プール等の体育施設からも教室まで走って行ける所にあります。莫大な費用がかかりますが、継続したいと思います。
研究開発でも例えば、グーデンベルク聖書のHUMIプロジェクトでは、バチカン宮殿、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学と協力、参加し互いに所有している古典文書を一緒に使えるようになってきました。
医学部では、MIS(ミニマム・インベンシブ・サージェリー)という外科手術により、胆石をお腹を切らずに4カ所の穴からロボットを入れ、遠隔操作によって取り出すことができ、手術の翌日には退院できます。
次に教育・研究のための種々の基金は現在約260億円あります。この運用益は教育、研究の新しい試みに使われます。福澤諭吉記念基金、小泉信三記念基金、奨学基金42億円、森泰吉郎さんご寄付の30億円、坂口光洋先生ご寄付の70億円などで構成されています。できれば将来1000億円までもってゆきたいと思います。奨学金制度について、既に種々ありますが、各銀行のご協力により、受験願書を出した段階で受給資格が発生する奨学ローンを作り、受験しようという決意を促し、合格すると塾が利払いし、20年間保証しております。「親のスネではなく、自分のスネで生きてゆく」というコンセプトです。
最近の学生は以前とすっかり空気が変わりました。服装がとても乱れてきたため、新入生と日吉の森を語りながら歩く会を開き指導しております。植林教育を通 じて自然と親しみ、人間の営みの中で、後生の人たちに遺すことがたくさんあることを教えています。
また、全く運動をしない学生が増えたため、塾長盃を作り全学生が参加できるソフトテニス、水上運動会(ボート)、バレーボール、フットサル、ソフトボール、クロスカントリー大会などを開き、運動する楽しさを教えております。
体育会も強い所と弱い所の極端な差が出てきたため、それぞれの部がしっかりするが大事です。早慶戦では負けた方に罵声を浴びせる風潮になったため、勝者は奢らず敗者にエールを送り、選手や、応援する者に風格を重んじるよう指導しています。
ニューヨーク校では入学資格を緩和し、転勤時期の3月以降6月までAO方式で受け付けるようになりました。英国ベリー・セント・エドマンズのマナーハウスを買い取り、改築し80人まで学生の研修を行えるようになりました。
将来の計画では理工学部で新研究棟が12月に完成、分子超分子超構造体リサーチセンターも活動を開始しました。三田ではグローバル・セキュリティー・リサーチセンターが入る東研究棟が来年3月完成いたします。日吉でも初の大きな研究センターの建設を予定しています。医学部では綜合医科学研究センターを100億円の予算で作り、湘南藤沢キャンパスでは看護医療学部を新設いたし、健康の森と称して新しい高齢者ケアの施設を作ります。デジタル・ラボラトリ、デザインスタジオも5棟、湘南に造ります。
新川崎の駅前には10年間の期限付きでケー・スクエア・タウンキャンパスを作り、山形県鶴岡市にも生命科学研究センターを計画しております。これらの研究所でつくられた成果 を慶應インテレクチャル・プロパティー・センター(IPC)で特許を取り、売却できるようにしました。
以上申し上げた種々の計画のために500億円の資金が必要ですが、今の塾の力を結集して行い、三田会の皆様には別 に喜んでいただける計画をお出しいたし、ご協力いただきたいと思っております。各地の三田会、慶應倶楽部を通 じて、互いに教え合い助け合い生涯に渡り睦み合う集まりをこれからも末永く続けて行きたいと思います。