顧問 上島康男(昭33法)
NHKの「マッサン」が大好評で、大阪NHKで撮影セットも見学し、又年末の歌番組でエリーさんも見、歌も聴いてきましたが、T.Vで西川きよし演じる住吉酒造の田中大作は、永年京都慶應倶楽部の評議員長を勤められていた阿部喜兵衛様の祖父の摂津酒造 社長 二代目阿部喜兵衛さんです。この二代目阿部喜兵衛さんは長男を若くして失い、二人の娘の一人に婿養子(三代目)を迎え、その間に生まれたお子様がこのエピソードを語ってくださった現在の四代目阿部喜兵衛さんで、摂津酒造は二代目の方の時に、ウィスキー造りも諦め、日本酒の醸造も廃業された由。
広島の竹原在の竹鶴酒造(現存)の息子 竹鶴政孝(T.Vではマッサンこと亀山政春)を酒の醸造の修業の為に預ったが、ウィスキー造りを学ばせる為、スコットランドへ留学させた処、広島の母親宛にスコットランド人の女性と結婚したいとの連絡があり、母親から「貴方が息子をウィスキー造りの為に留学させた為、大変なことになった。一体どうしてくれるか」と厳しい抗議が入り、責任を感じた阿部喜兵衛さんは、自らスコットランドへ行って「その相手がどんな女性か自分の目で確め、もし、ご子息に相応しい女性なら結婚を許してやってくれ」との約束で渡英した。そしてその相手の女性に会ってみると素晴しい女性だったので、この女性なら大丈夫と帰国して母親に報告したが、それでも渡英前の約束に反して「外国人の嫁はどうも」と中々承諾がとれず、もう一度、渡英し、お母さんは反対しているがそれでも結婚するかと、二人の気持ちを確かめて帰国し、やっと承諾が得られたとのこと。渡英した阿部喜兵衛さんはスコットランドで西洋式便座を見て、きっとリタさんが日本に来て一番困るのはトイレと思い、帰国後直ぐに洋式便器を購入し、帰国後の新居となる家につけておいた。日本に来て、リタさんはそれを見て大変喜び、阿部喜兵衛の心遣いに感謝し、日本人の優しさにも感銘を受けたとのこと。
当時は国際結婚は極めて稀で、多くの試練があった。二人の婚姻届けも二代目阿部喜兵衛さんが立ち合い人となり、受け付けてもらったとのことでした。
ウィスキー造りの苦労はT.V以上に大変だったようで、この竹鶴夫人のリタ(TVでは亀山エリー)さんは本当に立派な婦人で、国際結婚の厳しい立場にも耐えて、本当によく竹鶴さんをサポートしたそうで、リタ夫人が居て始めてウィスキー造りが成功したと云えるとのこと。この「リタ夫人」については多く作家により小説が発刊されているので知る人は知る女性だったとのこと。勿論竹鶴夫妻についても色々語られていますが、竹鶴政孝・リタ夫妻はT.Vとは違うキャラクターの人物で、昨年末、産経新聞に孫の竹鶴孝太郎さんがお二人のことを詳しく書いておられました。又、鳥井信吾君(三男鳥井道夫氏の長男)からも初代の鳥井信治郎氏はT.Vの鴨居欣次郎よりはるかに凄い人物だったと聞いています。長男の岸太郎(TVの鴨居英一郎)さんが竹鶴さんの教えを受け、ブレンダーになったが、早逝されました。鳥井信吾君は矢張りウィスキーのブレンダーで現在のサントリーウィスキーの味も彼の力が大だそうです。北海道での竹鶴政孝さんは未成熟なウィスキーを販売した時の失敗を繰り返さないため、しっかり熟成させることにし、熟成には数年かかるので、その間は大日果汁株式会社を設立、地元の産物のリンゴでリンゴジュース等を販売したが、これも高価な果汁100%の商品しか販売しなかったので余り売れず、経営には非常に苦労したようで、竹鶴政孝さんはどこまでも職人であったとのことです。この社名からウィスキーの銘柄をニッカとしたのはご高承の通りです。以上で終ります。
塚本明久(平9総)
本年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、幕末の人材が大きく取り上げられており、幕末の兵庫と姫路に活躍した人物についてご紹介します。
幕末佐幕派の姫路藩は慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが起こり幕府軍は大敗する。そのとき姫路藩兵は高松、大垣、浜田藩などともに幕府軍の後陣に配されていた。
幕府軍敗北によって姫路藩兵も国許に帰り、忠惇は藩兵と行を一にせずに慶喜に従い江戸に入り、第9代藩主酒井忠惇忠惇も老中を辞任したが、忠惇が朝敵となったために姫路藩には追討の命が下され、岡山藩によって姫路城は開城。姫路藩では急遽支族である上野伊勢崎藩主酒井忠恒の子である、忠邦を忠惇の養子として迎え宗家姫路酒井家の家督とすることにした。
後世に名君といわれる姫路城最後の城主・酒井忠邦の船出は波乱であった。姫路藩15万石を安堵のため藩老河合屏山の説に従い忠邦は新政府に帰順。数々の救解に努める。
しかし朝廷では幕府最後の大老であった第8代藩主酒井忠績(文政10年(1827)~明治28年(1895))と第9代藩主忠惇(天保10年(1839)~明治40年(1907))に対して疑念を差し挟み、忠邦は同族の若狭小浜藩主酒井忠録を頼って忠績名義の嘆願書を朝廷に提出し、さらに藩内では佐幕派の重職者を罷免し、勤皇派の謹慎を解く藩政改革を行い、慶応4年(1868年)5月21日に至りようやく忠惇の罪を赦されて蟄居とし、忠邦は、家督が認められた。(忠惇は罪を赦されて蟄居とし明治以後も徳川氏に仕えて、久能山東照宮の宮司となった)
第10代最後の藩主・忠邦は襲封直後、朝敵の罪を償うために御用金の献納、東北への出兵を願い出たが朝廷からは藩の情勢不安定のために、兵庫の豪商・北風正忠(天保5年(1834)~明治28年(1895))の尽力で御用金15万両を商人から調達、忠邦は苦心の上これを献じ、引き換え担保の姫路城を死守。さらに、忠邦は薩長土肥の四藩主による藩政奉還建言に先立って、明治元年(1868年)11月に版籍奉還を建白したことでも知られる。
明治2年(1869)皇居警衛・東京市中取締。6月版籍奉還により姫路藩知事となった。明治4年(1871)7月廃藩置県によって知事により解職となり姫路藩は消滅した。
以後、東京に出て慶應義塾に入学、芳野金陵に漢学を学ぶ。同年11月アメリカに留学し、4年後に帰国したが明治12年3月25日に26歳で病にかかり逝去した。版籍奉還はその後明治2年(1869年)6月に行われ、それにより姫路藩知事となり、明治4年(1871年)のを罷免され、死去した。明治13年3月、最後の城主として僅か1年余の在任であったが、名君の誉れ高かった酒井忠邦公を惜しみ、旧姫路藩士等322人が浄財を寄せて、忠邦公の一周忌に公の墓前に建立した石灯篭が、東京都谷中の姫路城主酒井家墓地から姫路城下山里に平成2年に移されている。
北風家は江戸時代、主要7家に分かれ、兵庫十二浜を支配し、幕末から明治にかけて北風正造(66代荘右衛門貞忠)は、兵庫の豪商 北風家に婿養子に入り、家督相続。幕府御用掛を勤めながら、資金面から勤皇の志士を後援した。表向き幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金(1796年以降代々の主人が個人の剰余金を居間と土蔵の2つの地下秘密蔵に貯めていた。60万両以上あったという。)の資金と情報を提供、倒幕を推進。明治元年(1868)東征大総督有栖川熾仁親王に駿馬(「トコトンヤレ節」で歌われる宮さんが乗っている馬らしい。正造の愛馬。)と3000両を寄付。一触即発状態の姫路藩と官軍との仲介(15万両と引換で姫路城を守る)。神戸事件では自衛・治安維持の必要から約150名から成る兵庫隊を結成、英国式操練を行う。湊川神社創立建議として学事振興の為、明親館を設立。商法司判事(兵庫在勤)、兵庫県会計官として出仕。西郷隆盛、伊藤博文等と維新前から知己があった。神戸事件で事態解決のため派遣されてきた東久世通禧とは七卿落ちの時手助けした関係でよく知った間柄であった。その他、多くの勤皇の志士と面識があったといわれている。明治に入っては、初代兵庫知事伊藤博文のもと、国事・県政に尽力した。
維新後、初代兵庫県知事・伊藤博文と共に、兵庫および神戸の発展に貢献した。通商司、為替会社頭取、兵庫県権大属廻漕会社頭取、兵庫米会社頭取、教部省検訓導兵庫新川開鑿事業担任を拝命する。神戸駅用地(約24万m2)を無償提供した事でも知られる。交詢社発足時社員でもあった。
しかし、新政府が藩閥組織の様相を呈してくるや、理想とのギャップから官職を辞退。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)等を使って、輸出製茶改良会社設立、米商会所設立、元締就任第73国立銀行創立、初代頭取就任家業・商業に専念するが、大番頭の死後、商業の失敗が相次ぎ、伊藤博文や姫路城を救った旧姫路藩主酒井家より援助、持直すが収拾不能。終に倒産し、失意の中、東京で客死した。正造の死を惜しんだ伊藤博文はその後すぐ、自ら筆をふるい、正造の菩提寺、能福寺の北風正造君(顕彰)碑の文字を書いた。