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長谷川 登喜 会員 石井 登志郎 会員

宍戸 洋(昭58法)

諫山 一彦会員より

≪六甲全山縦走記≫

 私は、御影小学校、御影中学から神戸高校を経て、昭和54年塾に入学しました。現在は須磨区横尾に住み、永年神戸や六甲山に親しんで暮らしております。11月13日、須磨浦公園から宝塚までの六甲連山(56km)を歩き通す市民行事「六甲全山縦走大会」に参加して参りましたので、ご報告したいと思います。

 午前5時、須磨浦公園で受付を済ませ、まだ真っ暗な山中でヘッドランプを点灯して歩き出しました。鉢伏山の急坂からは、明石海峡が真下に見え、黒い海に浮かぶ船と淡路島の灯が幻想的でした。高倉台、須磨アルプス(BRB2002/10拙稿参照)を経て、わが町横尾を歩いている時、真赤な太陽が東南の空に燦然と姿を現しました。

今日一日のエネルギーを与えられているかのように力づけられました。汗だくでハアハア喘ぎながら高取山、菊水山、鍋蓋山の頂上を踏み、10時30分頃、市ヶ原の河原に下りて来ました。ここから摩耶山頂までは、アップダウンを繰り返しながら500m程の標高差を稼ぐ厳しい道です。その道中で後ろを振り返ると、今まで歩いてきた山々が明石海峡を背景に連なっている光景を見渡すことができ、よくここまで来たものだと感心しました。

やっとの思いで摩耶頂上に着いたのが12時。市民の会の方々がサービスして下さるホットレモンを有難く2杯頂き、砂漠のオアシスの様な癒された雰囲気の中、後半への鋭気を養いました。30分休憩した後、ホテル、ゴルフ場等お馴染みの施設が立ち並ぶ六甲山上を通り抜け、最高峰一軒茶屋に14時30分に到着。ここからゴールの宝塚に向け、閑静な森林の道を黙々と歩くこと2時間程で甲山が見えてきて一安心、陽も落ちかけた頃眼下に宝塚の夜景が見えて大感激。あとは一気に街へ駆け下り、ゴールインしたのが17時30分でした。神戸市長からの完走認定証と盾を手に、異様な達成感、爽快感、充実感、高揚感を味わいながら、夜の帳が降りた宝塚を阪急電車で後にいたしました。

諫山 一彦(昭和53文)

岩井 功治会員より

≪福翁閑話≫

この度再入会させていただきました。10数年前に一度入会させていただいておりましたが、訳あって(ご想像にお任せしますが)再入会となりました。不動産三田会にもお世話になることになりました。よろしくお願いします。

 さて、塾を卒業して東京で就職しておりましたが、訳あって地元の神戸市役所に就職しました。塾出身者は職員2万人中20数名と少数です。(市会議員に浦上議員と前島議員の2人がおられます)
塾を語るにも時間が経ちすぎてはいますが、想いは強いものがあります。そこで、私事で恐縮ですが福翁に因んだ話題を3つ。

(1)先日福翁ゆかりの地大分県中津市を初めて訪ねる機会を得ました。学生時代は三田の演説館すら訪ねたこともなかった小生ですが、時間の経過とともに一度中津を訪ねることが夢となり、ようやく実現しました。

西洋事情の原本や独立自尊の碑もさることながら、晩年の福翁の等身大の写真は非常に印象に残りました。1万円札でお目にかかっているお馴染みの写真とは違って、威風堂々とした福翁にこれまでと違った畏敬の念を覚えました。
皆さんも一度は訪れてみては如何でしょうか。

(2)最近オスの柴犬を飼いました。名前は「ユキチ」。小生にとっては少し恐れ多い名前で命名には躊躇しましたが、家族の意見を押し切って決めました。息子は「シメタ」(?)を推奨しましたが却下。妻には呼び捨てが恐れ多いからと「ユキ」ちゃんと呼ばしています。現在80日を過ぎて益々やんちゃぶりを発揮している「ユキチ」です。

(3)テレビ番組「トレビの泉」を見ていたときに、ふと思い立ちました。「慶應義塾大学で『先生』と呼ばれているのは・・・福澤諭吉のみである」と。確かに休講の時、掲示板には「・・・君」休講と書いてあった気がします。息子に話すとそれは「トレビの泉」で採用されるのではないかといいます。一度応募してみようと思いますが、皆さん方はどう思われますか?

 以上拙文お許しください。例会には積極的に参加させていただきますのでよろしくお願いいたします。

岩井 功治(平9商)

宮本 英尚会員より

≪縁≫

皆様初めまして。岩井 功治 と申します。
商学部平成9年卒業、木村弘之亮ゼミ(公法、行政法)で学びました。市内の会計事務所で勤務しております。

ここ一年程は変化の多い時期を過ごしました。昨年11月に結婚し、今年は神戸慶應倶楽部へ入会させて頂き、また肉親の死を経験しました。
慶應の繋がりでは、仲人をお願いしたお方が慶應卒で、私の中学時代の恩師であり、また妻の上司でもあります。妻は私の出身校で現在教諭をしております。妻の父もその学校の卒業生で、父のその学校の大先輩が神戸慶應倶楽部の現会長をされておられる 五代 友和 様という経緯もあり、結婚を一つのきっかけに神戸慶應倶楽部へ入会させて頂くというご縁が出来ました。

義理の兄がタイで仕事をしており、今年初めてタイを訪れました。タイの人々は親切でおっとり優しい性格をしている印象を受けました。その理由の一つは熱帯の暑さにあるかと思います。日本の夏より太陽光の密度が濃く、バンコクでは恥ずかしながら危うく熱中症でダウンする寸前までいきました。少し郊外へ行くと若干過ごしやすく感じましたが、あの蒸し暑さではせかせかしても疲れるし、交通機関が時刻どおりでないと怒ってもよけいに暑さにやられてしまいそうです。そんな環境の中では、おおらかに過ごさないと疲れるぞ!とタイの人たちに言われている様な気がしたのです。そしてあの独特の言語、特にタイ文字に私は衝撃を受けると同時に、好奇心を煽られました。人間、文化、言語、食事等、新しい発見の連続でした。

縁とは不思議なもので、一つのご縁から今まで知らなかった新しい世界へと繋がって行く様な感じがします。どうぞ若輩者ですが宜しくご指導ください。

宮本 英尚(昭46法)

高橋 芳之助会員より

≪漢字文化への興味≫

神戸に単身赴任勤務して早くも九年になり神戸慶応倶楽部に入会させて頂き多くの皆様と交流させて頂きご指導ご厚誼を賜っており感謝しております。しかしながら最近仕事の関係で東京等への出張とかさなって例会等に参加する機会が減っており残念に思っております。最近夙に興味を感じるようになったことで偶々小生の知人が漢字文化振興会の事務局長をしている方がおり六月に岡山県高梁市で開催された山田方谷生誕二百年第四回全国藩校サミットin高梁に参加しました。
庄内藩致道館から薩摩藩造士館まで二十七の藩校の地から、藩主子孫や研究者ら六十人を含む八百人が参加。藩校教育を考え、方谷を偲びました。徳川宗家十八代恒孝氏が江戸文化を支えた教育と心の演題で記念講演をされ当時の識字率が世界一だった事に触れ、藩校などの教育で日本発展の基礎が築かれたと強調されました。

日本は戦後、目覚しい発展を遂げ、経済大国となりましたが、物質文化優先の一方で精神文化は衰微し、とりわけその基本をなす漢字文化の衰微は、目を覆うばかりです。
外来語の乱用や日本語の乱れなど憂うべき日本語の現状を打開、漢字文化をきちんと引き継いで行こうという気運が盛り上がって経済界、教育界の有志が中心となって十年ほど前に漢字文化振興会が設立され現在会長は三重野康氏(元日銀総裁)専務理事に石川忠久氏(前二松学舎大学学長)が就任されており全国各地で講演会・セミナー・シンポジウム等研修会への講師派遣等を実施して漢字文化の振興に貢献されてます。
九月には長野県信州・松代にて文化講演会があり、「漢字文化江戸を考える、江戸二百五十年の太平を支えた仕組みと心」 徳川恒孝 徳川記念財団理事長、 「詩人としての佐久間象山」 石川忠久 前二松学舎大学学長、 「対談〈徳川家と真田家〉」 徳川恒孝・白石宗靖 漢字文化振興会事務局長の講演・対談が予定されているので是非参加しようと計画しております。前回の藩校サミットの折には交流会にも参加させて頂き藩主の末裔の皆様にもお目にかかれて大変光栄であり感激でした。水戸徳川家のご当主 徳川斉正様は塾員でいらっしゃいましたので身近に感じさせても頂き有難く存じました。温故知新の精神を大切にして自らを修養するよう今後とも興味を持ちつづけて楽しい人生の糧にしていきたいと思っている一端を勝手ながら書かしていただきました。神戸慶応倶楽部の例会等の行事にもっと参加出来るよう心掛けたいのですがままならない事もあって失礼することが御座いますが今後共ご指導ご鞭撻宜しく御願い申し上げます。

高橋 芳之助(昭45経)

山口 勝裕会員より

≪目下、起業準備中≫

高橋芳之助です。
今年4月より入会させて頂きました。
昭和45年経済卒(41年芦屋高校卒)でゼミは尾崎巌先生(計量経済)に学びました。
昨年10月末に約35年勤務いたしました富士写真フィルムを早期退職し、現在、起業準備中であります。(FP業務)

この6,7月は西宮商工会議所主催の起業スクールに通っておりました。
神戸慶応倶楽部7月例会には、初めて夫婦同伴で参加させていただき、2次会は高橋洋三先輩と御一緒させていただきました。

大変、楽しい思い出となりました。
韓国ソウルには、平成9年より15年6月まで居住しており、そこでも韓国三田会(日本人、韓国人のOB会)、ソウル三田会(日本人のOB会)にも参加させていただき、ゴルフ、旅行、飲み会と楽しくお付き合いさせていただきました。

今年3月末に実家の芦屋に帰り、母と家内と娘の同居生活が始まりましたが、もう転勤することはなく、のんびり、ゆっくり、楽しく 過ごしたいと考えております。そして、阪神間の慶応OBの諸先輩方にいろいろお教えを受けながら、第2の生活設計をスタートしたこの頃です。
今後ともよろしくお願い申しあげます。

山口 勝裕(昭59経)

角谷 政保会員より

≪新たなるチャレンジ≫

勤務先が大阪ということもあって、以前大阪慶應倶楽部に入会しておりましたが、3年程前に退会し、私の大好きな神戸にあります神戸慶應倶楽部に入会致しました。

入会したものの、月例会などに顔を出すことなくいましたが、今年3月の例会に初めて参加させて頂きました。最初は新入会員ということで、一人で月例会に参加させて頂くことに若干の不安を感じながらも、大先輩の皆様がいらっしゃる中、非常にアット・ホームな雰囲気で楽しい一時を過ごさせて頂きました。

今年で45歳という中年の域に入り、私にとって大きな転機の年となりました。そこで、新たに三つのチャレンジ項目を掲げました。

まず一つ目は、仕事スキルの幅を広げることにチャレンジ。ある知人からお誘いを頂き、15年間勤務した鰍tFJ総合研究所を6月で退職し、7月より、新たにエネサーブ叶略開発室に勤務することとなりました。コンサルタントとしての立場を離れ、再度事業会社で勤務することで、自分のキャリアの幅の拡大にトライ。

二つ目は、私の次女が弓道をやりたいという話から、私も娘と一緒にやろうということで、ともに弓道の道場に入門し、自らの精神の鍛錬にチャレンジ。

三つ目は、喫煙者にとっては非常につらい環境になってきていますが、一度トライして挫折した禁煙プログラムに再度チャレンジ(禁酒は無理ですが)。

三つのチャレンジを掲げましたのも、この度のJR尼崎電車脱線事故で、私と同じクラブで大学生活4年間をともにした植木英也君が亡くなられたことが私にとって大きなきっかけとなりました。ニュースを見た瞬間まさかと思いましたが、告別式に出席させて頂き、非常に悲しい現実を目のあたりにしました。人生この先何が起こるか分からない、自分にとって納得のいく人生をと考え、思い切って新たな可能性にチャレンジすることとしました。

最後になりましたが、植木英也君のご冥福をお祈り申し上げます。
 

角谷 政保(昭32政)

堀 雅博会員より

≪久方ぶりに例会に参加して≫

新しい年度が始まり4月度の月例会が4月19日倶楽部ルームで開催された。小生は会員歴30数年を有しながら勤務先が大阪ということもあって、何度か李(里見)文振先輩の洒脱な競りを楽しみにオークションに参加した以外、殆ど出席した記憶のない超幽霊会員であった。昨年、京都で開催された関西合同三田会に参加したのが何年ぶりか判らないほど本当に久しぶりの参加であった。それだけに今回、久方振りにホームクラブの月例会に出席するにも勝手が判らず、何となく不安を感じていたことは否めない。

2月に倶楽部内にマジック同好会が発足し、マジック大好き人間の小生も入会申込をしていたことでもあり、倶楽部ルームが神港ビルヂングに移って初めて足を運ぶ。事務局の方に出席者の表を見せてもらい、小生が最年長者であることを知り、「歳を取ったもんやなぁ」と正直愕然とする。

会が始まるや、2000円の会費とは思えない三段重ねのご馳走の夕食をいただきながら、殆どの出席メンバーとは初対面にも拘らず、信じ難いほどの親近感をもって接していただき、過去の幽霊会員が嘘のよう。まるで常連のごとき寛ぎを感じ、これぞ福澤精神と今更ながら大いなる感動を覚える。

おまけに出席者中、最年長に免じてお許しを得て、臆面もなく昔覚えた下手糞マジックの披露に及ぶ。聞くところによると、神戸慶應倶楽部は、全国にあまたある地域ごとの三田会の中でも幾つもの同好会活動を含め充実した定例活動を行っている屈指の倶楽部とのことで大いに誇りを感じ、今後もこの楽しい会に精々出席したいと念願し、同時に今までの小生同様、出席率の良くない会員諸姉諸兄が、1人でも多く1回でも多くの会合に参加されるよう心からお勧めしたいと実感した次第である。
 

堀 雅博(昭54経)

石井 登志郎会員より

≪ご挨拶≫

昨年11月、79年卒業の同期会で徳丸幹事長とお会いしたのがご縁で、12月の年末家族例会に誘っていただき、入会しました堀と申します。

元々は東京の生まれ育ちですが、損害保険会社に勤務していたため転勤が多く、20代の独身時代の大半を大阪で過ごしました。その後東京?仙台?黒部?松江と歩きましたが、一昨年退職と同時に、好きだった神戸をこれからの生活拠点としたいと思い、定住生活に入りました。

今年48歳の年男であります。これから50代を迎えるわけですが、今からの夢と言いますか、目標として、3つのことを考えています。

一つ目は仕事のこと。日本火災海上保険?日本興亜損害保険で24年間勤務し、現在は三菱信託銀行神戸支店で働いておりますが、50歳になる頃には組織を離れ独立したく、勉強を続けています。脳味噌のしわもだいぶ少なくなったこの頃(見たんかの声あり)では、かなり記憶力も減退しておりますが、継続は力なりと、早朝勉強を続けて行くつもりです。(ゴルフバッグは封印中です。でも、夜は毎晩ビールを飲んでいますが。)

次に、昨年夏から始めた合気道を続け、50歳台前半で有段者となること。以前から武道への憧れがあり、普通部では空手部に入部しましたが、その後高校ではフィールドホッケーをするなど、武道から遠ざかっておりました。昨年、自宅から近い三田本町に道場があることを知り、これも何かの縁と入門し、週一回、大汗をかいて身体を絞っています。

もう一つは、趣味の写真について。10年くらい前から写真を撮り始め、下手くそながらも密かにホームページなどを作って楽しんでいますが、(次の仕事を確立させてから)もう一度写真を勉強し直して、プロとして通用するようなレベルに高めたいと思っています。恥ずかしながら、拙ホームページのURLです。もしお時間のある方はご一見いただき、ご意見ご感想など頂戴できれば幸甚です。
http://homepage3.nifty.com/M-HORI/

雑駁な文章で失礼いたしましたが、取り急ぎご挨拶まで。どうぞ今後とも宜しくご指導のほど、お願いいたします。

石井 登志郎(平6 総合)

長谷川 登喜会員より

≪未来からの留学生≫

私が卒業した総合政策学部のある湘南藤沢キャンパス(SFC)も開設15年が経過しました。SFCに対してはこれまでにも色々な評価がありました。私の入学当初には期待値で評価が暴騰、それが5・6年して一転、値崩れします。入社1・2年で退職するものが多く、「SFC卒業生は社会に順応できない」などと言われます。それが今となっては「ベンチャー志向」となり、評価の乱高下も一段落したようです。

一方で、一期生の私たちが責任世代に入ったこれからこそが、SFCの真価が問われると思っています。

加藤寛・初代総合政策学部長は、“君たちは「未来からの留学生」だ。未来は、何が起こるか判らない。そうした中で、いかなる難問にもくじけず、未来に希望をもって進める人材こそ必要なのだ。過去の蓄積を授けるのではなく学生に自ら問題を発見させ、その分析を行い、その解決をデザインさせることがSFCの教育である。”とおっしゃっておられました。

そういえば、私が師事した教授は、私の問いに明確な回答をしてくれませんでした。「白ですか? 黒ですか?」現代教育の産物である私は、答えがはっきりとしないとすっきりしません。しかし、「答えは自分で見つけなさい。何事も、一生懸命考え、実行することこそが糧になるよ。」そう言われ、「哲学や禅問答やってんじゃないよ。」と同級生にぶちぶち言ったりしました。しかし、今考えてみると、当時禅問答と揶揄していたこのプロセスこそが、私を鍛えてくれたのだと思います。
「未来からの留学生」であった私も、未来に向けて歩み始めました。私が生まれた芦屋、生活する西宮から、国の政治をリードしてみたい。「未来創造産業」である政治は、SFCの理念を形にするのに最適です。既に私の前には難問奇問が山積していますが、大丈夫、私には神戸慶應倶楽部の皆さんがついています!どうぞ今後とも、よろしくお願いします!

まだこのコーナーに登場されていない方、ご指名がなくても、進んで輪にお入りください。
二重三重の輪でより強固な社中の絆を繋いでいきたいと思います。(編集部)

長谷川 登喜(昭46文)

六拝 英彦会員より

私は姫路のカトリック系の中学高校を卒業した関係でカトリックの修道院の経営する女子大生の寮で学生時代を過ごしました。当時は娘が親元を離れるとなると寮に入るというのがごく普通の時代でした。当時の女子大生の寮生活をちょっとご紹介したいと思います。

その寮は世田谷の閑静な住宅街の大きなお屋敷で環境は抜群でした。門限は9時と厳しく、これが1番の悩みの種でした。友人と楽しく過ごしていても時間ばかり気にして、何度タクシーを飛ばして運転手さんに“お願いです、急いでください!”と泣きついたことでしょう。あまり遅刻が続くとカナダ人のシスターの寮長様から“これ以上門限に遅れたらお父様に連絡しますよ”と脅されてしょげかえったりしました。

電話も20人あまりの寮生に1台、もちろん携帯なんてない時代ですからいつも電話は順番待ちでお話中ばかり、彼からの電話なんてかかる余地がありません。彼がいないのを門限と電話のせいには出来ませんが・・・。

でも、もちろん楽しいことのほうが多かったですね。毎夜ティータイムにお夜食タイム(自習時間や消灯後はこっそりと)冬はストーブでラーメンや焼き芋を作ったり、お鍋に油をかけてフレンチフライポテトを上手につくる友人もいました。そして学校のこと、将来のこと、彼のこと、おしゃれのこと・・・と話題は尽きず、おしゃべりに花が咲きました。そしてお休みに入り帰省の前などは禁制のお酒もこっそり登場して二日酔いで帰れなくなったこともありました。

こうした“同じ釜の飯を食った”友達は学校の友達とはまた違った仲間として今もたまに会ったり一緒に旅行したりと親しく付き合っています。今になってみると当時厳しくて不便で、と不満に思ったことが全部懐かしくこの寮で学生時代を過ごせたことがありがたく思えてくるものです。
でもこのような寮は今の若い学生には人気がないらしく数年前になくなりました。