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2008年11月号掲載

県庁一帯をセントラルパークに

金刺 達夫(昭42経)

山手幹線がひときわ美しい季節になった。広い道路の両脇に植えられた銀杏が黄葉し、中央分離帯のクスノキとみごとなコントラストを見せている。神戸百景を上げよと言われれば、この沿線の県庁から鯉川筋にかけてと、大倉山から神戸駅にかけての二つの道筋を躊躇なく上げたい。ゆったりと湾曲する道路、沿道の建物、季節を彩る街路樹が街並みに風格を与えている。かつて建築家の芦原義信氏が都市の街並みを分析し、道幅(D)と建物の高さ(H)をD/H比率という数値にとらえ、1対2がこの場合の黄金比であろうというお説を述べていた*。わたしはこれに街路樹の高さと葉の茂りを変数に加え、街並みの美しさを説明できないものかとかねがね考えているが、浅学にして果たしていない。

勤め先が県庁の北、相楽園の隣にあり、ふだん県庁周辺をよく散歩する。北と南を山手幹線とバイパスが走っていて、その二つの道路をドラ焼きの皮にみなせば県庁はさしずめドラ焼きのアンにあたる。東の一角、神戸栄光教会から南の県公館にかけては特に美しく、映画のロケに使われることがある。ドラ焼きの中央を垂直に横切る元町駅から北の諏訪山に向かう道も捨てがたい。この道沿い、県公館と県警本部ビルの間に空き地があり駐車場に使われている。芝生とカラー舗装で区画され、周囲をトベラやアラカシ、クチナシなどの寄せ植えで囲む、たぶん神戸一こぎれいな駐車場だ。

ただ、一言注文をつければ、奇怪な存在感を示す三棟の県庁の建物がいただけない。市章山と錨山を仰ぐ視界を遮り、なんとも無骨なデザインだ。いっそ県庁を超高層タワービルに収容し一帯を公園緑地化して、木の間越しに集合住宅、劇場、洒落たカフェ・レストランが見え隠れする森の街、セントラルパークに変えたらどうだろう。六本木の旧防衛庁跡に出現した東京ミッドタウンの神戸バージョンだ。北野異人館街と旧居留地を結ぶ中間点にセントラルパークが出現すれば、街歩きを楽しむ人を引きつけ観光にも寄与すると思う。

県が財政難に陥っていることは周知の事実、とてもそんな金はないの一言で切り捨てられるかも知れない。だが、歩くと分かるが、県はこの辺りの大地主のようだ。県庁、県警本部、県公館はもとより、西の総合庁舎、県民小劇場、東の県民会館、農業共済会館、北には職員会館、公社館、女性交流プラザ、数え上げれば十指を越える建物を所有していると見受けられる。これらの、あるものは残し、あるものは壊し、あるものは売却して土地の高度利用を図れば、相当な資金を捻出できるだろう。あるいは、PFIを導入して民間ディベロッパーに開発を任せ、県は必要な事務所スペースと保留床を確保すれば腹は痛まない。世界金融恐慌の様相を呈している現在、誰がそんな投資をするか。人の行く裏に道ありで、市況が冷えたのを好機と商売のタネを仕込む人もいる。窮すればなんとやら、オイルマネーを呼び込むという奇手もあるかもしれない。

*「街並みの美学」 (1979年)岩波書店。
ちなみに経済学部昭和42年同窓、杉田忠史君(東京都板橋区在住)がこの本の出版を担当した。

ウィーン・ドイツ旅行記

藤井 文明(昭39工)

海外旅行は円安で損ばっかりとの声を聞いていたので暫く様子見でしたが、数年前に自宅でホームステイしていたドイツ人女性が故郷のライプチッヒで結婚式を挙げるので参列して欲しいと招待状が来たので行って来ました。井上光ご夫妻が同行して下さいました。

折角ドイツまで行くならオーストリアのウィーンにも行きたい、友人知人のいるミュンヘンやベルリンにも行きたいとなり、更に市全体が世界遺産になっているグラーツ、有名なオペラ劇場のあるドレスデンなどの各地を巡ってきました。

最初のウィーンには、この9月から我が自宅でホームステイしているドイツ・フンボルト大学からの留学生のお父さんが住んでいるので会って来ました。

次の夜には国立歌劇場前のザッハトルテで有名な店の前でアンサンブル・ラロの主催者ヘーデンボルク・直樹と落ち合い、ソプラノ歌手大島富士子を交えて夕食を共にしながら音楽談議を、翌日には一流のコンサートはチケットが取れないので三流で我慢、お上りさん達相手の誰でも知っているワルツやオペラアリアをたっぷり聞いて来ました。

ウィーンからミュンヘンへは列車で移動、リンツやザルツブルクを通って行きます。ミュンヘンでは関フィルのヴィオラトップを務めていた中島悦子さんと落ち合い、有名なビヤホール・ホーフブロイハウスで美味しいビールを堪能しました。

ミュンヘンからベルリンへも列車で移動、名歌手のニュルンベルクを通ります。ベルリンでは以前在神戸ドイツ領事館に勤務されていた女性の外交官にお目に掛かり夕食をともにしました。ベルリンフィルは建物を見るだけにしました。

さてライプチッヒでは午前中市内を見物し、バッハゆかりの地やゲバントハウス前を通って堪能した後、本来の目的の結婚式には小生夫婦のみ参列し、井上ご夫妻とは別行動しました。

ライプチッヒからドレスデンへは1時間半くらいで行けます。ゼンパーオーパー(ゼンパーオペラ劇場)の内部を見学、重厚な建物、内部の素晴らしさに感動しました。ドレスデンには泊まらず夕方にはベルリンへ帰り1泊し、翌日の朝出発する便でフランクフルト経由で帰って来ました。

ウィーンでは三流の安いホテル、ミュンヘンも同様、ベルリンは超一流、ライプチッヒは1泊2人で20ユーロと言う格安のところで泊まってきましたがそれぞれ趣きがあって楽しめました。さすがに1泊20ユーロのところは共同風呂に共同トイレで少し不自由でしたが清潔にしてあり十分貧乏旅行を楽しめました。

敢えて広く浅い趣味のススメ

諫山 一彦(昭51法・53文)

「定年になってからでは遅い。今から趣味を作っておかないと・・・」と今春退職した先輩からアドバイスを受けた。それも「一生もの」の趣味を持てという。先輩は物事を極めるタイプで、ある職場で上下で働いた時、とことん深く仕事をした人であった。

私も定年まであと数年。もちろん物事を極めるに越したことはないと思う。しかし、私は性にあわない。妻も元々ピアニストであったからか、一つのことを徹底的にやる。だから、私が昔買った楽器を「はしご」してすべてかじりさしにしていることには全く不満顔だ。フルートにコントラバス、そしてトロンボーンと自宅で楽器店が出来そうと嫌味に事欠かない。

楽器に限らず、私の主義は「趣味は浅く広く」である。昔から「鉄ちゃん」であり、「乗り鉄」「撮り鉄」であるが、とことんこの趣味を極めようとしている訳ではない。天文に憧れ雑誌に星空の写真を投稿したり、映画に凝って学生時代、自由が丘の「武蔵野推理劇場」で年間100本の映画を観たり全く腰が据わらないかもしれない。

最近、こんなかじり趣味が有益であるとの話をたて続けに聞き、意を強くしている。
まず、「生き方上手」で有名な日野原先生は「長生きするには新しいことに絶えず挑戦すること」と言われ、建築家の安藤忠雄先生は「若さを保つにはいろんなことに好奇心を持つこと」と先日ある講演会で話された。

これからも飽くなき趣味を広く浅く追及していこうと思う。そのためには、趣味が続けられる健康を保つことが必要であることは言うまでもないが。

無題

青戸つぐこ(昭29文)

楽しい話とは打って変わる報告ですが、最近の話です。

9月からこちら、私事ですが親戚知人に葬儀が多く、東奔西走しております。その中を私の母は白寿で東京で一人住まいして未だ元気ですが、女学校時代のクラスメート唯一の生き残りだった井上靖夫人が先週亡くなられ、ご葬儀に行きたいけど、かえってご迷惑だからと、我慢しながらさすがにガックリしております。

しかしまあ、親戚の方は誰彼とも幸せな人生であり、天寿を全うされ、むしろおめでたいのでしょうが、若い人が亡くなるのはいけません。

秋葉原事件でも線路に突き落とす事件でも誰でも良いからという殺人は本当に許せません。一人を殺すことはその家族、縁者何人をも悲しみのどん底に落すのですから。

それが又、殺人でなく不注意からの事故死になると、防げるものだけにもっと辛いことです。

9月初め、親しい知人の甥ごさんが友人と3人でスロベニアへ旅行しました。彼は甲陽でもトップクラス、全国模試でも1・2を争うほどの成績で絵も上手で芸大に進みたかったのですが、親の説得で東大へ入り、空手やワンダーフォーゲルなどと、スポーツマンでした。

さて、この夏休み終わりの旅行中、暑くて、ドナウ川のほとりで一休み。とうとうと流れる大河をスケッチした後,ひと泳ぎしてくると、飛び込んだのですが、友人達の目の前でたちまち呑みこまれ、一旦浮き上がったのですが、すぐ又引きずり込まれるように姿が消えてしまったのです。

知らせを受けた父親が飛んできて、日本の領事館の人や地元の協力で探しましたが、50キロ先にはダムがあり、国境は複雑なところですし、諦めるしかなかったのですが、息子の名前を呼びながら河畔を自転車で走り回っていた父親に応えてか、奇跡的にその辺で遺体が5・6日して上がったそうです。70キロの身体が90キロになっていたとか。遺体は1週間ほどしてから日本に帰って来ましたが、家族には見せられない状態なのでそのまま荼毘に付したのでした。

可愛がっていた祖父母、親、従妹たちすべて幸せだった一家が立ち上がれないほどの悲しみの中、葬儀には大勢の友人達が300人も全国から集まったそうです。

その時は健気に振舞った父親でしたが、しかし現在、特に遺体確認をした父親は未だに精神的に立ち直れず、勤めもやめ、その状態が心配で目を放せないので母親も高校の教職を休んでおられます。

若い人や学生さんたちが、世界を旅行しますが日本人の常として、あまりに優しい環境に慣れていて、ルール違反や厳しい風土などに無知な行動をします。
川といってもヨーロッパ大陸を何千キロと流れてくるドナウや、ラインの大河。ローレライの伝説でもわかるように船でも危険な箇所が多く、表面は静かに見えても底は岩が在り、渦を巻きながら複雑な水流を秘めている恐ろしさは日本のそれとは比較になりません。

どうぞこの話を若人への戒めにしてくださいませ。

2008年10月号掲載

上島 康男(昭33法)

2008年は我が70有余年の人生の中で良き思い出多き年である。母校の県立兵庫高校の100周年、慶應義塾の150周年、大学卒業50周年、社業関連では最大のコーヒーの生産国ブラジルへの日本人移民100周年に当る。

≪其の一 福澤諭吉先生の先見性≫

まず社業関連で話を展開すると、サンパウロで教鞭をとられていたことのある塾の森常任理事(法学部教授)から、福澤先生は著書の「世界国づくし」の中で逸早くブラジルを紹介され、塾生は大いに啓蒙され果敢にブラジルに活躍の場を求めたと承った。その中でも水野 龍氏はブラジルのコーヒー園がリンカーンの奴隷解放以来、人手不足で悩んでいることを知り、事前にブラジルを訪問し、下調べをした結果日本人のブラジル移民を企画し、1907年にサンパウロ州政府との間で「日本農業移民導入契約」を締結、自らがリーダーとなって1908年4月28日午後5時55分神戸港より第一回移民船「笠戸丸」で781人がブラジルへの移住の船出をした。しかし残念乍らその時の写真は現存せず、後日描かれた絵でしか知る由がない。この時には移民以外の人が10人同乗したので、記録には乗船者数は791人となっている。NHKの「その時歴史は動いた」を見られた方も多いと思うが、当時まだパナマ運河がなかったので、はるかアフリカの喜望峰を廻って50日余の航海の末、6月18日やっとの思いでブラジルのサントス港に着いた。

それからの日本人移民が舐めた辛酸は筆絶に尽し難かったが、水野 龍氏はその中に身を投じて開拓に従事された。日本人の勤勉さ、誠実さ、農業技術等は次第に称賛の目をもって迎えられるようになり、次第に成功者も出、移民排斥の弾圧や戦争で中断した年もあったが、移民は1972年で中止される迄続き、約25万人が移住した。戦時中の苦難、又終戦時の勝ち組、負け組間での争いでの日系人社会での悲劇には胸を痛める。水野 龍氏は一時帰国し、銀座にサンパウロ州政府からコーヒーの提供を受け、ブラジルコーヒー専門店カフェ・パウリスタを開店。森常任理事によれば銀座でブラジルコーヒーを飲むのが流行し「銀ブラ」の語源になったとか。再度渡伯した水野 龍氏は1951年93才で没したが、「移民の父」と尊敬されブラジルにお墓がある。福澤先生のもとにブラジルの慶應社中からコーヒーが送られてきたからかどうかは定かではないが、先生はコーヒーの愛飲家だった。

サンパウロ州政府は、8月開催される移民100周年記念のシンポジュームを日本の多くの開催希望校の中から慶應義塾大学(医学部・法学部)を指定してきている。あくまで私の推察であるが、福澤先生に啓発された塾出身者のブラジルでの活躍を初め、医学部が永年に亘りアマゾン奥地に疫病の研究等に派遣している慶應義塾医学部国際医学研究会(本年で第31次)のブラジルでの実績と森法学部教授(常任理事)他の教育への貢献等を高く評価したのでは。

≪其の二 ブラジル移民100周年記念行事≫

現在ブラジルの日系人は6世までいて150万人を超え、その内約30万人の若い日系人が日本で働いている。日系人は厳しい移民生活の中で、子弟だけはと教育に熱心で、最高学府のサンパウロ大学進学者も多く、現在空軍司令官や大学の教授他、政財界等の要職に就いている優秀な人材を多く輩出している。

6月18日のサンパウロでの移民100周年記念式典にはブラジル全土から約3万人が参集、日本からは皇太子殿下、地元の井戸兵庫県知事を始め在神戸ブラジル名誉領事の私の会社の社長上島一泰も参列、日本全国からも約5千人が参加して盛大に催されました。

神戸にも移民が渡伯前に逗留した旧国立移民収容所があり、最近その保存が決定した。又、サンパウロにも到着した人達が一時収容された建物があり、現在記念館になっていて、着慣れない洋服に着換えた時に脱いだ着物や当事の持ち物など資料として展示されている。

記念行事には無関係だが参考までに追記すると以前からブラジルでは砂糖黍からエコ燃料としてエタノールを生産していたが、コスト高(60ドル)に悩まされていた。しかし原油の高騰(120ドル)で息を吹き返し、高収益事業になりつつある。アメリカがコーンを原料としているのと異なり、砂糖の搾り粕から抽出するので食糧問題には全く影響はなく、砂糖の増産にも繋がっている。しかしブラジルでは砂糖黍増産の為にアマゾンの森林地域を開発するので環境破壊となると有識者は懸念されているがそれは誤りで、隣接のセラード地域に約1.7億hの未開発の耕作地がある。酸性土壌なので、土質改良の要があり、今迄は森林を焼き払いその灰でアルカリ土壌に変えていたが、それが許されなくなった現在、日本の農業技術が期待されている所以でもある。エタノールはガソリンに比べて約20%出力が低下するので、ガソリン価値比80%以下になるとブラジルでは殆どエタノールを使用している。

≪其の三 慶應創立150周年・卒業50周年≫

次いで卒業50周年だが1958年卒の我々法D組は卒業以来卒業年に因んで毎年3月3日にクラス会を開催、今年も東京會館に集った。そして4月3日招待の入学式に参列、その後に開催される懇親会と5月24日の33年卒主催の卒業50周年記念同窓会への出席を約した。結果、メンバーは変ったが連絡可のクラスメート22名中それぞれ13名の参加があり、十数年振りのクラスメートとの再会や他学部の親しかった友人達とも大いに旧交を温めることが出来、気のおけない学友との交流は至福の一時であった。矢張り卒業50年と云うことで招待される11月9日の本年度の慶應連合三田会へは健康が許せば是非出席したいと思っている。

さてその前日の塾主催の創立150周年記念式典は参列者約1万名、その内訳は来賓3千名、塾生3千名で塾員は約4千名とのこと。従って塾員の申込者がきっとオーバーすると思われるので、どうも抽選になりそうである。志半端で倒れ、これらの行事に参加出来なかった亡き多くの畏友に、そしてよく神戸慶應倶楽部にもご出席下さった関西婦人三田会元会長 山口道江様(同期)に心から喪悼の意を表する。

秋の慶早ゴルフ対抗戦

廣川 守(昭57政)

去る9月3日、六甲山山頂に位置する神戸ゴルフ倶楽部にて慶早ゴルフ対 抗戦が開催されました。当日の朝6時頃はかなりのどしゃ降りでやきもきさせられましたが、そのうち雨も上がり、朝一番のティーショットこそ霧の中でしたが、その後は秋の気配の漂う六甲山でのゴルフを満喫致しました。年二回開催される慶早ゴルフ対抗戦を私たち夫婦はとても楽しみにしており、できる限り参加させて頂いております。(実は主人は早稲田卒ですので対抗戦の勝敗が夫婦の力関係に微妙な影響を及ぼします。)

今年も早稲田の樽本様・木下様等々おなじみの方々にお会いし、冗談を言い合っておりますと、慶早大学の同窓会といった感じが致しました。今回ネット上位者4名の合計ストロークで競いましたが、2ストロークの僅差で慶應が勝利致しました。

慶應側のトップは田嶋紀雄様でした。アップダウンが激しく狭いフェアウェーにもか かわらず勝負所でのナイスショット等、大変しぶといゴルフで勉強させて頂きました。
プレー後の懇親会には佐井会長にもご参加頂き、すきやき鍋を囲み甘いだの辛いだの言いつつ盛り上がり最後は「若き血」の熱唱で締めくくられました。

次回は是非より多くの方のご参加を期待しております。
(当日参加者:田嶋・池田・渡辺・森本・廣川)

2008年8月号掲載

≪四国八十八箇所
ランニングお遍路さん≫

野田 敬二(昭58経)

平成19年12月24日に、小雪ちらつく徳島県鳴門市の第一番札所・霊山寺をスタートし、平成20年7月20日、香川県善通寺市の第七十五番札所・善通寺に到達しました。昭文社のガイドによれば、1番〜88番まで1128.5キロのうち善通寺は1023キロ地点にあるので、順打ち結願まで残り105.5キロとなりました。逆打ちも引き続き挑戦するつもりなので、全行程の中間点手前に位置しています。中間報告としてご報告いたします。

物騒な話ですが、ある統計によれば、刑法にふれる犯罪を初めて犯す年齢で一番多いのが49歳。フルマラソン初挑戦でもっとも多い年齢が49歳。記憶違いでなければ、上杉謙信さん・織田信長さんら49歳で他界。私は、野田会計事務所を立ち上げて今年で14年、来年、満年齢で49歳。“このあたりでオイル交換が必要ではないか?”と考え、お遍路さんを開始しました。

途中、お寺の方々や四国の方々に暖かい励ましを頂戴しましたが、その中で最も多かった内容が“歩き遍路、自転車遍路、バス遍路、マイカー遍路、タクシー遍路等等、色々な遍路があるが、多分、写経まできっちりしてのランニングお遍路さんは野田敬二が元祖だろう。”というものでした。

この体験談をまとめた上で、皆様に伝えようと思い、本年度11月14日(金)朝10時〜12時、コープ神戸の協同学苑で講演させて頂くことになりました。神戸慶應倶楽部の皆様には来年の桜の花咲くころ、神戸慶應倶楽部の定例の会合で発表させて頂く予定です。ご期待ください。

今年の夏は、香川県の山々をランニングしています。もし野田敬二を見かけたら一声かけて下さい。

いまどきの学生

康乗 克之(昭58商)

5月の最終週、念願の企業に就職を決めた後輩のA君から次のようなメールが届きました。
「お疲れさまっす。就活の方、○○社に決まりました。康乗先輩のアドバイスがヒットしました。ホントありがとうございます。飲みに連れてっていただく件、金曜でよろしかったですか?」

25年前、最悪の成績で塾を卒業した私でさえ、先輩への手紙(手紙ですよ!)の文面はもう少しマシなものだったと記憶しています。A君の名誉のため付言しますが、大学の成績もいまのところAとBしかない(そういえば、衛藤の美術、略してエトビってありましたよね、AとBしか付けないことと掛けてそう言われていました。私はDをくらいましたが・・)ほど優秀な学生です。

いまの学生達は大方の連絡をメールで片付けます。一日に打ち込む文字数は相当なもの(これをいまの学生風に言うと、「ハンパないっす」と表現します)です。したがって文章の達人揃いなのかというと、これがそういうわけでもありません(「びみょ〜!」といいます)。

彼らに共通する最大の特徴は、口語と文語の区別がない、ということです。先輩や恩師へのお礼メールも仲間うちのメーリス(「メーリングリスト」の略)も、すべて親しみを込めた話し言葉で片付ける悪い癖が散見しています。メールするという日常頻繁な作業に、相手によってメリハリをつける心得が欠落してしまった、と感じるのは私だけでしょうか?

我が神戸慶應倶楽部に「読書会」が誕生したと伺いました!素晴らしい!!是非とも若い会員を強制連行して、言の葉の鉄拳を浴びせようではありませんかぁ!!!(暴言失礼)

≪慶應高校
夏の甲子園に出場決定≫

辰野 芳之(昭42経)

6年ぶり17回目の出場。第一戦は、8月5日(火)の第3試合(13:30〜)、長野の松商学園との対戦。
春のセンバツに引き続いて「若き血」を躍らせ、応援に駆けつけましょう!

2008年7月号掲載

≪留学生のことなど・・≫

藤井 文明(昭39工)

ここ数年、甲南大学から依頼されて留学生のホームステイを預かっています。

昨年9月から今年の5月末まで香港出身で米国イリノイ大学に留学していたクリスティーナ(以下クリ:家ではクリちゃんと呼んでいました)が9ヶ月我家で一緒に暮らしていました。彼女は見たところ日本人と区別が付かない顔付きであり、日本語も不自由なく使えますから支障なく同居を続けていました。そこへ今度は園田学園女子大学からフィジーの留学生を預かって欲しいとの依頼があり、一人も二人もまあいいかと引き受けたのは昨年の12月のことでした。

まず世界地図を見ることから始め、米粒みたいに太平洋に浮かぶ島国であることを知りました。やって来たのは偉丈夫ならぬ偉丈婦。体重100キロ以上、ウエストサイズ150センチもあろうかと思われる立派な体格の30歳代の女性です。我家に着くとすぐにボウルを貸して欲しいとのことで炊事に使うものを貸すと、水道の水を入れてからなにやら本国から持参した茶色の粉を取り出してその水に入れてかき混ぜて溶かし、それから居間の絨毯の上に彼女があぐらをかいてその前に私と家内とクリに同様に座れと命じ、フィジー語の呪文のような言葉をぶつぶつ言いつつこのボウルの水を飲めと言いました。飲む前に拍手を打てとのことでぽんぽんと相撲の要領で2回打ったら、そうではなくて掌を水平にして上下に打たねば駄目と叱られその通り実行しましたが、粉の正体が不明の上、溶かす時は彼女の白くない手でかき混ぜていたので気持ち良く頂きますとはとても言えなかったのですが、そこは日フィの外交問題にならないよう配慮して目をつむって飲みました。家内もクリも飲みました。もちろん最初に飲むのはナニです。クリに目配せしてまさか麻薬ではないだろうねと日本語でこっそり確認し合いましたが味も素っ気もない泥水を飲んだような気がしました。これで私達がフィジーへ行ったら誰からも友達として歓迎してくれると彼女は太鼓判を押してくれました。うれしいことです。

昨年は以前に預かった留学生がシカゴで結婚式を挙げたので行って来ましたし、今年の9月には別の子がドイツのライプチッヒで結婚するので祝福に行き、来年にはカナダからの子がメキシコかジャマイカで結婚式を挙げるので絶対来て欲しいと言われています。預かっている時には行き違いもあって困ることもあったのですが、暫く経ってからこんなお祝いに行けるのは本当にホストファミリー冥利に尽きる思いです。

≪代理見合い? 未婚率?
〜〜ちょっと気になるニュース〜〜≫

松尾 茂樹(昭60商)

先日、あるTV番組で“代理見合い”が大盛況との情報を見てビックリしました。結婚できない、もしくはする気のない子供の為に、親同士が会場に数10人(組)が集まってお見合いをするのだそうです。子供の写真・プロフィールを持って、年齢、学歴、仕事、年収、趣味・趣向、好み、などなどで相手を探し、親同士が気に入れば、子供も一緒に再度お見合いをするのだそうです。それってどう思います?プライバシーも無く、まるで政略結婚ですよね。子供がだらしないのか、いや、過保護すぎというか、子離れできてない親が多いということでしょう。

学校で問題になっているモンスターペアレントも同じではないでしょうか?子供は自分のドレスやバッグなどのように、自分を着飾ってみせる持ち物のひとつで、ペットのようなものなのかもしれません。かわいくて従順で、お利口さんであるはずの存在なのです。

もしも子供がそうならなければ、みんな回りが悪い。友達が悪い。先生が悪い。学校が悪い。社会が悪い。または、そんな子は内の子供では無い。と疎外して家庭崩壊。
その為か、結婚願望というか家庭を持つ人も減ってきているようです。その情報にも数字を聞いてビックリしました。
“未婚率”(一度も結婚したことの無い人の率)が急激に上がっているのだそうです。

  1975年 1985年 1995年 2005年
29歳 48.3% 60.4% 66.9% 71.4%
20.9% 30.6% 48.0% 59.0%
34歳 11.7% 28.1% 37.3% 47.1%
7.7% 10.4% 19.7% 32.0%

ますます子供が減るし、家庭崩壊も増えてきて、この先が怖いですよね。
内も中2と小4の子供がいて、ボーイスカウトのリーダーをしておりますので、非常に気になりますし、自分自身見つめ直さないといけないな〜と思っております。
仕事?とおつきあいの飲食?でかなり家庭をないがしろにしているダメな父親です。

大阪の橋本知事ではないですが、公約で言ってた「子供が笑う」様な社会になってほしいですね。
最近のちょっと気になるニュースから・・・

≪ご無沙汰しています≫

辰野 芳之(昭42経)

神戸を離れ帰京して早や3年半。再び訪れたいと思いつつ、ナカナカ果たせず今日に至っています。お送りいただくBRBなどで何となく雰囲気が伝わり懐かしく感じております。
なるべく早く神戸の街を訪れたいと念じているこのごろです。

正直なところ、関西で住むには神戸が良いと思うのですが、仕事や遊びで関西へ行くとなると大阪、京都、奈良が優先してしまう、お許しください。

(地方会員)

2008年6月号掲載

≪イタリア聖地巡礼の旅(2)≫

浅沼 清之(昭36経)

サン・ピエトロ大聖堂は、いうまでもなく、荘厳なるカトリックの総本山。聖ペテロの墓の上に建てられた4世紀のバジリカが始まりである。16世紀に再建着工、ラファエッロ、ミケランジェロ等が再建に取り組み、17世紀に完成した。ヴァチカン宮殿美術館は、歴代の法皇が集めた美術が中心である。

システィーナ礼拝堂は、法皇の公的礼拝堂であり、法皇選挙の会場でもある。天井の壁画はフレスコ画で、正面に、ミケランジェロの「最後の審判」、天井に「アダムの創造」「原罪と楽園追放」「ノアの洪水」等が画かれている。壁画は、左右に、キリスト伝、モーゼ伝を主題にしている。

サンカリスト・カタコンベを訪問したが、地下5層、長さ20キロ、10万人を葬る墓地であり、3世紀の法皇の墓、サンタ・チェチーリアの墓、等がある。
また、3世紀のフレスコ画で飾る「秘跡の間」等が見られる。カタコンベは、初期キリスト教時代に、迫害された信徒達の地下墓地であった。
ナヴォーナ広場地区にあるパンテオンは、紀元前27−25に建造され、完全なローマ建築である。ラファエッロ、エマヌエーレ2世の墓がある。

そのほかに、ローマでは、サンパウロ・フォーリレムーラ教会、トレフォンターネ教会等を訪問して、巡礼日程を終えた。同行していただいた神父の一人が、イタリア人で現地事情に詳しく、日本語で解説していただけたのは、誠に幸運であった。

≪アイルランドのリンクスコース≫

菊田 義正(昭42商)

4年前、スコットランドのセントアンドリュースGC、カーヌステイGC等8ヶ所のリンクスコースでプレイした時の感激が忘れられず、去年夏、同じ友人3人と今度はアイルランドのリンクスコースにチャレンジした。

アイルランドは北海道とほぼ同じ大きさで、ゴルフ場は408ヶ所。そのうち海岸沿いのリンクスはわずか53ヶ所であり、2週間で9ヶ所をレンタカーで周る企画である。

目玉はアイルランド屈指の難コース、バリーバニオンGC。
ヨーロッパ最西端の大西洋に切り立つ断崖上に位置し、トム・ワトソンが「世界のゴルフ場の中で最も美しく、タフで素晴らしいコースである」と絶賛したという記事を読み是非行って見たいと思っていた。

このコースは超人気で1年前に予約で一杯になるということもあり、早くからゴルフ場ガイド、ホテルガイド、詳細な道路地図等の入手及び情報収集の準備に入った。旅行代理店は一切通さずインターネット、ファックスで直接申し込むという正に手作りの旅行である。

ゴルフ場はお馴染みの全英オープンと同じ強風と深いラフとポットバンカー。吹き荒れる偏西風でグリーン上のボールが動く時もある。ラフに入ると半分はロストボール。仮に見つかったところでサンドウェッジでも中々脱出困難。バンカーも横に脱出。「こんなゴルフ場どこが面白いのか!」と怒る人が多いらしい。ラフ、バンカーに入らなかった時の安堵感。ボールを見つけた時の喜び。上手く?運良く脱出出来た時の大きな喜び。色々な楽しみ方があるものだ。難攻不落なコースでもパーがたまに取れる。その時の無上の幸せはとても言い尽くせない。日頃のスコアーよりラウンド10打以上叩く。とても歯が立たない。

それでもラウンドを終えたときの爽快感は格別。バリーバニオンの他、特にウォーターヴィルGC、トラリーGC、ユーロピアンGCは風景の美しさ、コースの難しさ等印象的なコースであった。100年以上のゴルフの歴史を持つ国のゴルフ場でタイガーウッズ他数々の有名プロと同じ空気を吸えたと思うだけでも至福。ユーロが最も高かったこともあり1ラウンド(キャデイ無しでトローリー代を含む)平均22,000円とプレイ代が日本より遥かに高かったのが想定外であった

が、体力、気力あるうちに再度チャレンジしたいもの。しかし前回、是非又行きたいと言った他の3人が「次回はいつか?」と聞かなかったのが心配である。

≪後部座席シートベルトは大切です≫

(中学生投げ出され死亡)の教訓

高田 育明(昭51医)

平成20年6月から後部座席シートベルトの装着が義務化(減点1点)されます。

義務化直前の5月3日、後部座席シートベルトをしていれば防げたかもしれない交通事故(死亡事故)が身近の神戸淡路鳴門道で起こりました。

母親の運転する乗用車が高速道路の側壁に衝突し、次いで中央分離帯に衝突し、その弾みで後部座席に乗っていた娘二人が反対車線に投げ出されました。娘一人は頭部を強打し間もなく死亡、もう一人は病院で手当を受けており、運転者の母親は軽傷!運転者の母親にとっては受け入れ難い無惨な結末となってしまいました!!
もし、後部座席シートベルトを装着していれば、このような不幸な結末にならなかったでしょう。

後部座席シートベルト装着の義務化は有用で、必要なことと認識しました。

<実験データー>
1)高速道路で車外に放出された死者の割合
運転席 17.2%、助手席 26.7%、◎後部座席 41.3%
と運転席の2倍以上の高い確率で車外に放出されて死亡している。

2)ダミー人形の衝突実験で、シートベルトをしていない後部座席のダミーは前席のシートを背もたれごと押し潰し、運転者あるいは助手席乗員は背もたれとエアバッグに強く挟み込まれ、重傷を負うことが示された。

交通事故は怖いですね。

2008年5月号掲載

≪イタリア聖地巡礼の旅(1)≫

浅沼 清之(昭36経)

4月上旬に、10日間程掛けてイタリア聖地巡礼の旅に出かけた。

アッシジ、グッピオ、ペルージア、フィレンツェ、ヴァチカン、ローマの教会・聖堂等を巡り、ローマ法皇謁見にも出席する旅である。カトリック教会が主催し、2名の神父が同行された。一緒に参加した中高時代の友人2名は信徒であるが、私達夫婦は非信徒で、初めての体験であった。

最初に訪れたアッシジは、イタリアでも最も古い都市の一つ、ここには紀元前10〜12世紀まで栄えたエトルリア文化の遺跡、ローマ文化の遺構があり、町全体に中世の面影を残している。12世紀後半、聖フランチェスコと、聖女キアラの誕生の地として巡礼に訪れるカトリック教徒が多い。教皇グレゴリウス9世が、フランチェスコを、1228年没後2年目に、列聖し、その直後に着工されたサン・フランチェスコ大聖堂は、精神と絵画と建築が見事に融和したバジリカである。イタリアン・ゴシック芸術の典型と言える。地下墓所には、聖フランチェスコと4人の修道士が眠り、上部聖堂の壁面に「フランチェスコの生涯」を画くフレスコ画(ジョット作)がある。聖フランチェスコが息をひきとったポリツィウンコラ礼拝堂のある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」や、聖女キアラが42年間過ごし、息をひきとった「サン・ダミアーノ教会」は、城壁の外側にある。日が傾き晩祷の時刻が来て、数多い聖堂の鐘が鳴り始めると、胸の底まで響いてくる思いであった。
アッシジから、バスで、グッビオ、ペルージアを訪問する。グッビオはウンブリア州の北東部インジノ山の中腹の町で、起源はエトルリア時代に遡る。13世紀建立のサン・フランチェスコ教会が、町の入り口にあり、町が山に向かって広がっている山の頂上近く、最上部にドゥオモが見上げるように建っている。

グッビオから約40分で、ウンブリアの州都ペルージアに着く。この町もエトルリア時代から栄えた町、古さと活気と、丘陵地帯ならではの眺望が楽しめ、イタリアの地方都市の魅力に溢れている。巨大な石造りのエトルリア門は、4千年以上もこのペルージアの町に聳える歴史の遺産である。

ペルージアの次に、ラベルナ山にあるラベルナ修道院を訪問した。聖フランチェスコが、修道会を離れ孤独な隠遁生活に入ったのが、このラベルナ山の洞窟であった。長い断食と祈りの後、有名な「聖痕の奇蹟」が起こったといわれる。両手、両足、脇腹に五つの傷ができ、キリストの受けた傷と場所、形状も酷似していたという。

次の訪問先はフィレンツェとなる。
サンマルコ修道院は、かつてのドミニコ会修道院である。現在はサンマルコ美術館といわれ、フラ・アンジェリカと弟子による、優美なフレスコ画で飾られている。「受胎告知」がよく知られている。サンタ・マリア・デルフィオーレ大聖堂(ドゥオーム・カテードラル)は、13世紀末から175年かけて建造された。3万人が一同に会することができる。このドゥオームの前にある八角形の洗礼堂は、11〜13世紀の建築であるが、ダンテがかって、ここで洗礼を受けたといわれている。サンタ・クローチェ教会は、ミケランジェロ、ロッシーニ、ガリレイ、マキアヴェリの墓や、ダンテの記念廟がある。ジョットのフレスコ画「サン・フランチェスコの生涯」がバルディー礼拝堂にある。

最後の訪問先はヴァチカンとローマになる。
ヴァチカン広場での「ローマ法皇謁見」を始めて経験したが、現在のローマ法皇ベネディクト16世と数名の枢機卿が出席し、聖ベネディクト(486〜547 モンテカッシーノ修道院の創設者)の考察がテーマであった。全ての各国参加団体の名前が、枢機卿によって読み上げられた。

≪カメラと写真のことなど≫

堀 雅博(昭54経済)

カメラと写真が好きで、ぱちりぱちりと撮り始めてから10数年、色々な場所・時間・空気・人・家族などを撮り貯めて来ました。

当初はネガフィルム、その後ポジフィルム(いわゆるスライド用のフィルムですね)を長く使っていました。現像したフィルムをライトボックスに載せてルーペで見ると、自分で撮ったとは思えないくらい奇麗な世界が広がっています。平面のフィルムでありながら、奥行きを感じ、その場の空気感も写っている、そんな魅力がありました。

時代は変化し、今や銀塩写真に代わり、デジタルカメラ全盛期。フィルム代や現像料が嵩んできたことや、撮り貯めたフィルムの整理に時間が取れなくなって来たこともあり、とうとう昨年、銀塩からデジタルに切り替えました。 マウントアダプターを使って、今まで愛用して来たCONTAX用のCARL ZEISSレンズを使えると知ったことも、切り替えのきっかけとなりました。
今はCANON EOS 5D(一眼レフ)とRICOH GR DIGITAL(コンパクトカメラ…神戸慶應倶楽部の行事でも使ってます)を愛用しています。

ライトボックスとルーペで見る楽しみはなくなりましたが、デジタルカメラならではのメリットは色々と感じます。フィルムに比べ、一度に沢山撮れること。フィルムのときは36枚撮り1本を撮っても、「あ、これ良いかも」と感じるのは1コマか2コマ。デジタルでは、明らかな失敗写真はその場で消去もできます。家に帰ればすぐパソコンに取り込んで、フォルダに分けて整理ができること。ネットでのサービスも充実して来て、取り込んだ写真をプリント注文、自宅に配送してくれるシステムなどもあります。
  デジタルカメラの進歩は、より多くの人が写真を身近に楽しめるようにしてくれたのでは、と思います。性能も良くなり、操作も簡単になり、誰でも少しの知識と好奇心があれば、プロ顔負けの写真を撮ることも可能です。気になる風景などを気軽に切り取ってみれば、自分にとって忘れられない一枚になるかもしれません。

写真はその時その場所にいなければ撮れないもの。
同じ場所でも季節が違えば全く違う風景になり、同じ日でも時刻が違えば光が違う。その一瞬、自分がそこにいた、という記憶を写真で残すことができます。

最初は自分の撮った写真を人に見てもらうことなど考えもしませんでしたが、思い切ってホームページを作ってみて、今は色々な人に写真を見てもらっています。あまり頻繁に更新はできていませんが、お暇なときにでも覗いてみていただいて、ご意見や感想など頂ければ嬉しいですし、「この程度なら誰でも撮れる」とホームページを立ち上げられる方がいらっしゃればそれも楽しいと思います。

娘たちを撮るために始めたような写真ですが、今は彼女たちは友人と撮るプリクラの方が100倍楽しくて、被写体にする機会はあまりなくなりました。レンズは外に向けることにして、これからは神戸を拠点に、気になる風景を見つけ、季節を感じ、加えて「これを撮りたい!」というテーマを見つけて撮り続けて行きたいと思っています。
http://web.mac.com/hori_masahiro/

≪慶早ゴルフ対抗戦≫

記事:森本

4月4日(金) 慶早ゴルフコンペが廣野ゴルフ倶楽部にて開催されました。
神戸早稲田倶楽部より17名の参加をいただき、当倶楽部からは12名が参加し、桜満開の絶好のコンディションのなか、プレーと懇親会で大いに盛り上がりました。

対抗競技は各倶楽部の上位7名によるネット合計で競われ、神戸早稲田倶楽部が勝利致しました。個人戦では優勝:森本泰暢、2位廣川まもりさん(慶)、3位蟻田尚邦さん(早)という結果でした。

秋は早稲田主催で9月3日(水)に神戸ゴルフ倶楽部で対抗戦が開催されます。皆様の参加をお待ちしております。

出席者は以下の通り(敬称略)です。
広瀬 努・森 隆・五代友和・杉本正昭・高金俊博・佐井裕正・山上高弘・廣川まもり・喜多村晴雄・渡辺義博・野田敬二・森本泰暢

2008年4月号掲載

≪嗚呼残念
 塾高 甲子園に散る

近藤 正(昭39商)

3月26日わが母校慶應義塾高校(以下塾高)が選抜高校野球大会に出場するというので、関西塾高会(塾高OB会)の面々で甲子園球場に応援に出かけた。

今回は第80回目の記念大会で、全国で36校の精鋭が出場する。塾高野球部は、春7回、夏16回の甲子園出場を誇り、その歴史は輝かしい。
1916年(大正5)夏の第2回大会に優勝したほか、1920年(大正9)に準優勝、また、ベスト8入りは春夏各2回を数える伝統校である。今回のチームも、昨秋関東大会で準優勝が高く評価され、センバツ出場を決めた。

多少肌寒かったが青空のお天気のもと、1塁側アルプス応援席に陣取るために、試合開始2時間前に集合した。全員がこの日のために、三色旗とペンマークのついた特製ウィンドブレーカーを特注しての張り切りようだ。

応援席には、東京から駆けつけた幼稚舎生徒をはじめ塾関係者が続々と詰めかけ、三色旗の赤と青で埋まり、大いにムードが盛り上がった。関西婦人三田会の美女軍団も大勢で黄色い声援を送ってくれた。

2時に試合開始。初戦の相手は、山口県の県立華陵高校で今回特別枠で出場したチームだった。対戦前は組しやすしの感だったが、これが大間違い・・・。

試合経過は1回表華陵が1点を先行して、塾高が追う形となり、その後塾高が再三再四チャンスを作りながらも決定打が出なかった。特に4回はあと20センチでホームランになる当りや、5回は華陵ライトの好返球で本塁で憤死するなどほんとに惜しいチャンスを何度も逃した。

「塾歌」「若き血」「三色旗の下に」などで懸命に応援したが、残念ながら結局1対0で惜敗した。
今のチームはエース田村(力道山の孫)を軸に安定した投手陣と爆発力を備えた打撃陣を擁し、更に精進したら夏の大会の優勝も夢ではない。

“夏に待ってるよ塾高野球部

本年が、慶應義塾150年という記念すべき年だから・・・

≪嗚呼残念
 塾高 甲子園に散る

青戸統子(昭29文)

3・4日もかけて私が作った横断幕は、球場の係りから止められて、泣く泣く引っ込めました。
(だから負けたのよ
幻の写真です。(撮影者:藤井文明氏に感謝)

≪ミラノ グルメ事情≫

河野 忠友(平1商)

「生きるために食べる」か「食べるために生きるか」、ミラノを訪れる度に悩むところです。つい先月も1週間ミラノに滞在しましたがメタボ再発の恐れを心配しながらも結局食べてしまいました。

ミラノといえば世界のファッション情報発信地ですし、イタリア各地の料理店が集まるグルメの街でもあります。実はイタリアにイタリア料理は存在せず、敢えて何料理と言えば「トスカーナ料理」「ロンバルディア料理」「シシリア料理」「サルディニア料理」という風にそれぞれの風土の異なる地方別に分類されることが一般的です。

一昔前、ミラノで話題のグルメスポットといえばミシュランの3つ星を獲得した「アイモ・エ・ナディア」や、ジョルジョアルマーニ氏が自らの複合店舗に誘致した「NOBU」。更にそれ以前は「ジャンニーノ」「アルフィオ」といったイタリアらしいリストランテが有名でした。

ところが最近異変が起きています。新しいコンセプト、つまり「ファッション」と「グルメ」のハイブリッドスタイルが出現してきています。ご存知スーパーブランド「ドルチェ・アンド・ガッバーナ」は「GOLD」を、「ロベルトカヴァリ」は「カヴァリカフェ」を、「ブルガリ」はホテルを開設、そのメインダイニングなどが今ミラノで最もハイエンドなスペースとして人気です。肝心のテイストですがどちらも美味しく頂け、ブランドのステイタスを感じます。さらに夜な夜な集うのが「チョイ悪系オヤジ」と「メチャ綺麗系シニョーラ」。彼ら「艶男(アデオス)」と「艶女(アデージョ)」のファッショナブルな装いを楽しむのもファッション系リストランテの特徴でしょう。次はどのブランドが新しいコンセプトでスポットを打ち出してくるか、今から楽しみです。

ドルチェ アンド ガッバーナ
「GOLD」のエントランス。
とてもお洒落!
「カヴァリカフェ」
何とブランドイメージ同様
ソファまで豹柄!!!

≪地域発WASEDA125フェステイバル≫

広瀬 努(昭45商)

3月1日、早稲田125周年の記念行事のコンサートに出席させていただきました。昨年10月21日に125周年記念式典が行われ、慶應義塾の安西塾長も来賓で挨拶されました。

地域の記念事業として神戸でもサッカーの岡田武史監督を招いて10月6日に講演会を実施し、今回の催しは早稲田大学総長のご令室である白井朝氏のバイオリンと、グリークラブ出身の世界的オペラ歌手の岡村喬夫氏、さらに早稲田大学交響楽団の協力を得た「WASEDA125フェステイバル」が松方ホールで開催されました。

77歳とは思えない岡村さんのすばらしい歌声とトークには感心しました。
白井さんのバイオリンと現役学生の交響楽団もすばらしいものでした。
最後にグリークラブ出身の白井総長とともに早稲田の校歌を久しぶりに歌い楽しい時間をすごしました。

2008年3月号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫
〜兵庫県出身の選手を中心に〜
【第七回】

市居 嘉雄(昭29経)


文中敬称略

◎昭和30年(1955) 主将:佐々木信也
<新入部員> 福田純三(甲南高)
春季は藤田投手が頑張ったが、打線の中心衆樹の負傷後は低滞し結局7勝6敗で3位に終わった(明大優勝)。衆樹は0.432で首位打者に、ベストテンに4人が入り、チーム打率も1位であった。
秋季の慶應は中田の打棒が奮い、藤田が力投を続けたものの7勝4敗で3位(早大が優勝)。

◎昭和31年(1956) 稲葉誠治監督就任(〜35年)主将:衆樹資宏
<新入部員> 芦尾芳司(滝川高) 高橋秀典(県尼崎高)
春季は藤田投手や佐々木内野手が卒業したあとで、5勝6敗2分で4位(優勝早大)。
新入の芦尾は昭和29年の春と夏に甲子園出場し、高橋も30年の春に出場した。
秋季の慶應は中田、衆樹を中心に打線が好調で林投手が巧投、早大にも連勝して10勝2敗2分で9シーズンぶり15回目の優勝を遂げた。中田が0.426で首位打者を獲得した。

◎昭和32年(1957) 主将:黒松俊一郎
<新入部員> 渡海昇二(芦屋高)
戦後ずっと進駐軍に接収されていた神宮球場が全面的に返還された。
春季は慶應の左腕河合の好投と打線の活躍で、石井連蔵投手や広岡、小森、荒川らの早大に連敗したものの、8勝3敗で連覇を遂げた。慶應の松本、福沢両名が0.378で首位打者を獲得した。
秋季は勝点4同士の早慶で優勝を争った。慶應河合、早大石井両投手が3日連投し神宮は沸いたが、決勝戦に3対2で敗れ9勝3敗で2位となった。

◎昭和33年(1958) 主将:巽一
<新入部員> 宇多照雄(甲陽高) 百瀬進一(六甲高) 根津裕彦(灘高) 横山俊明(兵庫高)
春季は主将でエースの巽が7勝すべてをかせぎ、打線はリーグ1位の好調ぶりながら守備が乱れて7勝5敗で2位(立大3連覇)。慶應の赤木が0.404で首位打者となる。
秋季は立教が4連覇を遂げたが早慶共に振るわず、長雨にもたたられてリーグ戦は盛り上がりに欠けた。しかし、慶早戦は1回戦3対3引き分け、2回戦3対2早大、3回戦2対2引き分け、4回戦1対0で慶應、5回戦も4対3で慶應が勝つという熱戦続きであった。結局6勝8敗4分で4位に終わる。
リーグ戦終了後の11月11日、慶應義塾創立百年記念の全慶早戦が神宮球場で、双方超豪華メンバーを揃えて行われた。早大の大浜総長がマウンドから投球すると、慶應の奥井塾長が打席でバットを振るという型破りの始球式が行われ、慶應の応援席では作詞家の藤浦洸が応援指導部のセーター姿でバンドを指揮するなど、百年祭らしい光景が見られた。
結局、百周年の記念試合は4対1で全慶應が快勝した。

それからちょうど50年が経過し、その間塾野球部はリーグ戦などで数々のドラマを生み、兵庫県出身選手も活躍してきた。
そして、いよいよ本年度は塾創立150周年の記念すべき年を迎え、これからどんな球史が展開されていくのか、大いに期待しているところである。

永らくご愛読ありがとうございました。(終)

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫
〜兵庫県出身の選手を中心に〜
【第六回】

市居 嘉雄(昭29経)


文中敬称略

◎昭和25年(1950) 主将:(春)徳丸幸助
(秋)山村泰弘
<新入部員> 吉川武利(甲陽高) 有本義明(芦屋高) 山本治(明石高) 田中徹雄(芦屋高)
伝谷恵重(滝川高)
春季は山村が22試合連続安打の新記録をつくったが守備が乱れ、慶早戦では早大末吉投手の前に連敗し6勝4敗の3位に終わる(早大優勝)。慶應は神宮のみ使用。
秋季には慶應は低迷。新人山本投手の好投があったものの打線が振るわず、4勝7敗で5位(早大優勝)。慶應は神宮のみ。
この年新入の有本と田中は昭和21・23・24年に春夏の大会に甲子園で活躍した。特に24年の選抜には有本投手、田中三塁手らの芦屋高は優勝戦で多湖投手兼左翼手らの北野高と対戦、延長12回で涙をのんだ。有本・田中に続き、翌年には多湖も塾野球部に入った。なお、投手山本と私は塾で同クラスであった。

◎昭和26年(1951) 主将:平古場昭二
<新入部員> 中川正夫(芦屋高)
春季は山本がエース平古場を助けて勝利の大半をかせぎ新鋭選手が活躍した。8勝3敗で慶、早、立が優勝決定戦に臨み、慶1対0立のあと早大に3対2で敗れ優勝を逸した。グリーンパーク球場8試合、神宮8試合。
秋季は阪井監督のもと山本投手の力投と花井、多湖ら打線の奮起によって、早大を決勝で退け10勝2敗で優勝した。すべて神宮球場。
この年入部の中川(芦高)も甲子園活躍の一人である。

◎昭和27年(1952) 主将:松本豊
<新入部員>甲斐克也(甲南高) 広井靖(甲南高)
戦後ずっと進駐軍に接収されていた神宮球場が全面的に返還された。
春季は慶應の左腕河合の好投と打線の活躍で、石井連蔵投手や広岡、小森、荒川らの早大に連敗したものの、8勝3敗で連覇を遂げた。慶應の松本、福沢両名が0.378で首位打者を獲得した。
秋季は勝点4同士の早慶で優勝を争った。慶應河合、早大石井両投手が3日連投し神宮は沸いたが、決勝戦に3対2で敗れ9勝3敗で2位となった。

◎昭和28年(1953) 主将:河合貞雄
<新入部員> 土河次郎(芦屋高)  中田昌弘(鳴尾高) 広沢誠一(灘高)
春季の慶應は河合投手らの故障もあり7勝5敗で3位(優勝は大沢らの立教)。
秋季は河合投手の巧投で慶早戦に勝ったものの、攻撃面が低調で7勝5敗2分で4位となる(秋山・土井の明大優勝)。
新入の土河は昭和27年の春選抜に出場。また鳴尾高の中田は26年の選抜に投手として藤尾捕手(のち巨人入り)と組んで好投し準優勝、翌春にも投手で4番打者として活躍した(のちプロ野球阪急入り)。
なお、中田の塾での活躍はその年度に記す。

◎昭和29年(1954) 主将:山下新造
<新入部員> 林薫(神戸高) 阿部好佑(洲本高)長尾勝弘(洲本高)
春季の慶應は山下らの打線は迫力があり藤田投手が力投したが、8勝4敗で2位(秋山投手の明大優勝)。慶應の日野選手が0.382で首位打者に。
秋季は慶應の強力打線が十分威力を発揮できず7勝5敗1分けで3位(優勝早大)。
この秋からベストナイン表彰が始まった。新入の阿部と長尾は昭和28年春の選抜に初出場の洲本高が淡路島に初の優勝旗を持ち帰った時の中心選手である。 (つづく)

≪ドバイの旅≫

渡辺 義博(昭58商)

1月18日から23日までUAEのドバイに旅行してきた。アラビアンナイトの世界を想像していた私は、その思いが間違っていた事に気づかされた。
現在拡張工事中のドバイ国際空港は世界一を目指す不夜城であった。(日本からは関空と名古屋から毎日便が就航している。)

空港からホテルに向かう車の中からは、建設中の高層ビルがあちこちに見えた。現在、ドバイは建設バブル、世界中のタワークレーンの3分の2がドバイに集まっているのではという噂まであった。その中でも、“バージュ・ドバイ(ドバイの塔)”は圧巻だった。現在600mまで完成、今年中に800m(180F)の世界一のビルになるそうだ。

ちなみに、80Fから100Fまであのアルマーニがホテルを運営するそうで、ドバイに来るセレブ達の関心を引くであろう。
さてそうしているうちに、最近神田うのがハネムーンで泊った“バージュ・アブ・アラブ”(五つ星を超えた七つ星と言われている)ホテルに到着。我々が帰った後に神田うのが来たらしい。タイガー・ウッズも同じ時期に来ていたかも?(彼はドバイ・クラシック・オープンに招待されていた)

右の写真に見える橋を渡って人口島に建つホテルに行くのだが、橋の前には門がありセキリティがゲストかどうかをチェックして、ゲストのみ中に入れる。
チェックインは部屋で行い、執事が24時間ケアをしてくれるが、日本の観光客は慣れてなく、英語を話せない客は使いこなせないようだった。部屋は全室メゾネットタイプのスイートで、バスルームに置いてあるアメニティキットはすべてエルメス、それだけでも5万円以上するそうだ。

  一休みしてから市内観光に出た。ガイドからUAEドバイの話しを聞いた。

UAEはUnited Arab Emiratesの略で7つの首長国からなり、首都はアブダビである。アブダビとドバイが日本では有名で、UAEの予算の80%はアブダビ、20%弱はドバイが出し、その関係で大統領はアブダビ首長が、副大統領兼首相はドバイ首長が就いている。人口は180万人で、その8割が外国人、2割がアラビア人である。

気候は、夏(6〜9月)は40度を超え、年7日ぐらいは50度を超えるそうだ。冬でも10度前後あり、日本より暖かい。気温が45度を超えると、野外の仕事は出来ない法律があるため、建設バブルのドバイでは、48度ぐらいまでは44度で発表しているという噂がある。

ドバイは1970年初頭に英国から独立し、今ではロンドンにシティの不動産を買いあさり、英国・東英国・東京証券所の株を20%取得。
あと20年で石油が枯渇すると言われているドバイは、現在金融立国・観光立国を目指している。ちなみにアブダビは、石油はまだ100年以上とれ、ドバイほど焦っていないようである。

観光立国を目指すドバイには、次のような進行中のプロジェクトがあり、日本のゼネコンの多くが参加している。
三つの人工島建設(パーム・パームジュメイラ・ワールドマップ)、そして四つ目のユニバースを発表、そのためダンプカーの行進が深夜から朝まで、オマーン国境付近の岩山からドバイ市内に続く。その他、世界一の動物園・水族館・テーマパーク・ショッピングモールなど。
また、地下鉄も建設中で、日本の企業体が請け負っていた。ただ、1L=45円のドバイで車から地下鉄に通勤手段を代える人がどれだけいるか疑問であるといわれているようだ。

そうこうしているうちに、唯一の観光スポットといわれるゴールドスーク(金市場)、スパイススーク(香辛料市場)に来たが、期待していたほどではなかった。金は国際価格なので、金自体を日本で買うのと価格にさほど割安感はなかった。ただ、アクセサリーなどの加工品は値切れるのでいいかも。

それよりもこのシーズンにショッピングフェスティバルがあり、どのモールもブランド品も50〜70%オフの商品が多く見られ賑わっていた。私も50%オフのラルフローレンのカシミヤセーターを購入したが、帰国後あまりの寒さに思わず関空で着てしまった。

まだまだ言い足りないことはあるが、この辺で終わりたいと思う。ドバイは一度は行ってみてはとお勧めするが、格安ツアーではつまらないかもしれない。

≪常夏のハワイ紀行≫

近藤 正(昭39商)

2月の初めから10日間、寒い日本を脱出して、ハワイのマウイ島とオアフ島へゴルフと観光を兼ねて旅行してきた。一緒に行ったのは、塾の先輩Hさん(S37卒)と私の同期(S39卒)のSさん、Nさんの4人組で、昨年もカウワイ島へ行った気心の知れた仲間だ。

最初の6日間はマウイ島のカアナパリで過ごした。ここは、美しい海とゴルフ場に囲まれた一大リゾート地だ。経費節減のため、コンドミニアム(キッチン付きのユニットを備えた宿泊施設)での自炊生活を続けたが、これがまた楽しかった。毎日ゴルフ・観光の後、近くのスーパーで買い物をして、各人が得意の料理を作るのだが、Nさんの日本から持参の香辛料で作った特製カレーライスは最高だった。私はゴルフ場で食べるおにぎり作りに精を出した。

着いた翌日、早速A.パーマー設計による名門カパルア・ゴルフクラブに出かけ、いざ、スタートしようとしたら大ハプニング・・・。ゴルフバッグを開けたら新調したばかりのドライバーのシャフトが真っ二つに折れていたのだ。帰国してから、関係先を奔走してなんとか補償を取り付けたが、航空会社の荷物の取り扱いには充分注意してほしい。

観光は、レンタカーを借りて各地を巡ったが、ラハイナ港からのホエール・ウオッチング・クルーズはすばらしかった。至近距離でのザトウ鯨の豪快な潮吹きや、体長15メートル、体重40トンの巨体で器用に宙返りするブローチングと呼ばれるハイジャンプは見ものだった。

後半は、オアフ島のワイキキで3日間を過ごしたが、ここではマウイでの緊縮財政から一変して、ワイキキの一等地にあるハワイ最古の名門 モアナ サーフライダー ホテルに泊まり王様気分を味わった。ホテルの各階には、天然木材の家具が置かれ、古きよき時代の面影を残していた。

オアフ島での観光は、真珠湾の米潜水艦ボウフィン号と戦艦ミズーリの見学をした。ミズーリ号の降伏文書調印式の場所に立つと、署名した重光葵氏(当時外務大臣)の心境を偲び、何となく感傷的になった。

ゴルフの最後は、先般米女子プロ開幕戦で上田桃子ちゃんが活躍したタートルベイ・リゾートコースへ行ったが、途中、大雨でびしょ濡れとなり散々だった。

今回の旅行は、ハワイにしては珍しく雨降りが多く、自称サニーマンも形無しだった。でも、気心知れた仲間との旅行はとても楽しいもので、また機会があれば、是非行きたいものだ。

「結構」の語源は「構えを結ぶ」という字のとおり家屋を構築したり、文章を組み立てたりすることを言う。
建築物や文章が優れている時「見事な結構」と褒めたが、それが見事、立派の意味を表すようにになった。
「結構人」「結構者」は、好人物、おとなしい人、愚直な人。
「結構立」は、わざと好人物らしくすること、お人よし。
更にお人好しから愚鈍な人をさすようになり「結構は阿呆のうち」ともいわれるようになった。

現在では「結構いいね」とか、外国の人に評判の悪いYesか Noか曖昧な「結構です」という使い方が多い。

「結構」が建築用語からきた言葉とは・・勉強になりました。(広辞苑に出ていたという、又聞きです。)

2008年2月号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫
〜兵庫県出身の選手を中心に〜
【第五回】

市居 嘉雄(昭29経)


文中敬称略

◎昭和20年(1945)
終戦後の10月28日神宮球場で、六大学野球の戦後第一戦が六大学OB戦の形で行われた。
また、11月18日には戦後初の全慶早戦が行われ、延長11回6対3で全慶應が勝った。

◎昭和21年(1946) 主将:(春)別当薫(秋)大島信雄
1月中旬、西宮球場で全慶早戦が行われ、大島、別当ら現役の多い全慶應が連勝した。
<新入部員> 本田治(神戸一中)、山村泰弘(神戸一中)
※新入の山村は山村三兄弟の末弟にあたる。
4月中旬、西宮球場で全慶・早・明・関大のリーグ戦が行われ全慶應が2勝1敗であった。
春季は復員した選手が他校より多い慶應が大島、別当らの投打が優勢で5戦全勝で優勝した(2位は東京帝大)。5試合のうち3試合は上井草球場、2試合が後楽園球場。
現在の塾歌が慶早戦で歌われるようになったのは、この春のシーズンからでは、と言われている。
9月上旬、海外同胞援護基金募集のため全慶早戦が2日間行われ全慶應が連勝。中旬の全慶明戦も全慶應が快勝した(いずれも後楽園球場)。
秋季より宇野光雄臨時監督就任。
秋季リーグ戦は神宮球場の使用が許可され、慶應は大島の力投があったものの打力不振で、7勝4敗の2位となる。天皇杯が下賜され優勝の早大に渡った。

◎昭和22年(1947)主将:(春)大島信雄(秋)加藤進
<新入部員> 吉岡宏(県尼崎中)
春季は高橋、山村、久保木らの強打線と大島の好投により8勝2敗で優勝した。久保木が0.376で首位打者に。後楽園で9試合、東大球場で1試合。
春季リーグ戦後、甲子園球場で現役選手による慶早戦が行われ、1回戦延長14回7対7引き分け、2回戦8対2で慶應が勝った。
秋季は上野精三監督就任(〜24年)。岩中投手による10戦完投の奮闘、加藤、本田、山村らの好打によって9勝1敗で連続優勝を果たす。後楽園3試合、神宮7試合。
第1回大学王座決定戦は慶應、専大、関学大により11月8日から甲子園球場で行われ、三すくみとなった。

◎昭和23年(1948) 主将:久保木清
<新入部員> 浅沼和寿(芦屋中)、入江正則(神戸一中)
春季から対抗勝点で順位を決める決勝戦制が採用された。慶應は主力選手の不調や負傷が響き6勝7敗の4位に終る(早大優勝)。慶早第2戦は6月6日の日曜日神宮で行われたが、午前10時に超満員となりバックスクリーンにも溢れた。入場できないファンが3万人もいて、混乱によりケガ人13人を出す状態となった。神宮8試合、後楽園4試合。
なお新入部の入江投手は昭和22年の甲子園に春と夏の大会出場。
秋季は総じて投打とも低調なシーズンであったが、慶早戦には連勝、5勝7敗1分けで4位となった(関根投手の法大優勝)。神宮12試合、和泉球場1試合。 11月下旬西宮球場で全慶早戦を行い第1戦引分け、第2戦は全早大が勝った。

◎昭和24年(1949) 監督:阪井盛一(〜31年)主将:高橋久雄
<新入部員> 井沢透馬(芦屋高)
春季は慶應が平古場投手、徳丸らの打撃陣などチーム全体が不調で5勝8敗の5位に終わる(早大優勝)。上井草5試合。神宮4試合、後楽園4試合。
秋季は慶應が9勝5敗1分で優勝した。山村泰弘が0.455で首位打者、2位岩中、3位吉岡となった。後楽園4試合、神宮8試合、上井草3試合。
11月中旬、大学王座決定戦が西宮球場で行われ、慶應、中央大、関西大が1勝1敗となった。(つづく)

≪摩耶山登山≫

宝田 大輔(平11経)

神戸に転勤してきて、早くも2年がたちました。
今回は神戸に来てから出来た新しい趣味を紹介させていただこうと思います。

神戸に来て、昨年2月に結婚し(式は9月にハワイで挙げました)、灘で一緒に生活を始めました。妻は神戸での生活は始めてで、こちらには知り合いがほとんどいないことと、私自身運動不足であることを強く感じていたことから、週末に二人で一緒に出来るスポ−ツを探しておりました。新神戸まで散歩したときに一度麻耶山に登ってみようと思い立ったのが、摩耶山登山を始めたきっかけです。

初めて登ったときにはかなり疲れましたが、掬星台からの景色を見たとき、すごくきれいだと思い、登りきった満足感を味わうことが出来たことと、掬星台で飲んだお茶が非常においしく、疲労感も心地よく感じられたことから、ほぼ毎週摩耶山に登るようになりました。

登るときは、灘の自宅マンションから新神戸駅まで歩きます。そして、そこから布引の滝、布引貯水池、市が原をへて、掬星台まで2時間ほどで登ります。掬星台で景色を眺め、休憩します。その後は徳川道をとおり下山するコ−スが、景色も良く、気に入っています。

夏前には、山頂でアジサイがきれいに咲いていたり、カエルの卵からおたまじゃくしがかえるのを見つけたり、秋は紅葉で山がきれいに色づいていたり、その時々に景色も変化し、四季の移り変わりを感じることが出来ます。

昨年4月から11月までほぼ毎週末摩耶山に登っています。12月からは山頂の気温も寒いので一休みしていますが、暖かくなってくれば再開しようと思っています。今年は須磨から宝塚まで56キロを歩く六甲全山縦走に参加できるように、継続して登っていこうと思っています。

摩耶山は身近で、ゆっくりと進めば登るのもそれほど難しくないと思います。ぜひ、運動不足の解消・ストレス発散に登ってみてはいかがでしょうか。

2008年新年号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫
〜兵庫県出身の選手を中心に〜
【第四回】

市居 嘉雄(昭29経)


文中敬称略

◎昭和14年(1939) 主将:楠本保(〜15年)
<新入部員> 阪井盛一(滝川中)
春季は早慶によって王座が争われ、第1戦は慶應先勝、第2戦は早大が勝ち、2シーズン制としては昭和6年秋以来8年目13シーズンぶりの優勝決定戦は、早大に5対4で敗れて2位となる。
秋季は文部省の方針により1ヵ月間でリーグ戦が終わった。エース高木の好投と百万ドル内野陣の攻守、上位打者の好打で早大との優勝決定戦にも勝ち、7勝1敗で優勝。
新入の阪井は昭和11年春の選抜と翌年の春と夏の大会で甲子園に捕手として出場、13年春は捕手で3番打者として活躍した(昭和24年監督に)。

◎昭和15年(1940)
<新入部員> 別当薫(甲陽中)
春季は文部省の野球弾圧が激しくなり、開幕前日には全員明治神宮に参拝、入場式は海軍軍楽隊が先導した。慶明立3校が7勝3敗で同率1位となり、優勝預かりとなった。
秋季は文部省の方針によって対戦1試合制となり、1ヵ月間の短いシーズンとなった。3勝2敗で早大と共に2位(明大優勝)。塾の根津右翼手が4割で首位打者となる。
ところで、新入の別当は昭和12年春の選抜、翌年の春と夏の大会に出場、剛球投手で3番打者として甲陽中チームの主軸で活躍した。塾に入ってからの成績はその年度に記述する。卒業後は社会人のオール大阪を経てプロ野球阪神に入団、毎日に移り本塁打・打点で2冠王となった。のち近鉄、大洋、広島の監督となり、多くの後進を育てた。昭和63年(1988)1月に野球殿堂に入った。

◎昭和16年(1941) 主将:高木正雄
<新入部員> ナシ
春季は平日の試合が禁止され、降雨のため日程が再々変更された運不運が優勝を左右した。慶應は投手陣が崩れ5勝3敗2分で4位(優勝法大)となったが、山村投手の好投が注目された。塾の大館が0.394で首位打者に。
 秋季は文部省の意向により1本勝負、試合は日曜、祭日に限られる日程で行われ、1日に6校が登場して3試合を行った。また内野席は学生と招待者のみ、外野席だけ有料入場券が発売された。3勝1敗1分で2位(優勝早大)。
この年、現行の新塾歌(作詞:富田正文・作曲:信時潔)が新しく制定されたが、リーグ戦でいつから歌われるようになったかは明らかではない。 戦後、慶早戦が復活してからではないかといわれる。

◎昭和17年(1942)主将:(春)宇野光雄(秋)山村吉隆
<新入部員> 菅瀬栄三(神戸一中)
春季は山村投手の奮投と阪井捕手の好リード、別当外野手が5割で首位打者となるなどし7勝3敗で2位(優勝明大)。
秋季は宇野ら7名が繰り上げ卒業のため2勝3敗で5位(優勝早大)。

◎昭和18年(1943) 主将:(春)山村吉隆・(秋)阪井盛一
<新入部員> 松尾俊治(灘中)
4月7日、文部省から六大学リーグ解散の通達があった。9月卒業の選手達の送別試合が傷病慰問兵を兼ねて日吉球場で行われ、12対12で引分け。
なお、新入の松尾は卒業後スポーツ記者となり、後年『慶應義塾野球部史』の編集委員長となる。
秋に就任の阪井主将らの奔走もあり、10月16日早大の戸塚球場で歴史的な「学徒出陣壮行早慶戦」が行われた。早大10対1慶應。勝敗を度外視して、両校学生がお互いに励まし合い、「海行かば」の厳粛な歌声が早稲田の杜にこだましたという。この試合が戦時中の最後の試合となった。
なお、昭和10年から14年頃にかけて活躍した中田は、18年7月22日ニューギニア沖で水上機母艦と運命を共にし、また楠本もその翌日中国北部において奇襲攻撃を受け戦死した。(つづく)

≪震 災 復 興≫

土井 正孝(昭63商)

阪神・淡路大震災復興イベントである神戸ルミナリエも終了した12月23日・24日と、新潟県柏崎市刈羽村を訪問しました。皆さんご承知の通り、柏崎市刈羽村は2007年7月16日の中越沖地震で大きな被害を受けた場所です。最近は、その状況が報道されることも少なくなり、復興の状況が十分伝わってきませんが、実際訪問してみると、半年近くたった今でも、倒壊した建造物、ブルーシートを屋根にかぶせている家、通行止めになっている道路や亀裂の入った道路、壊れたままのブロックなどが散見され、被害の大きさはもちろん、まさに復興の途上である状況を窺い知ることが出来ました。また、この地震では、こうした直接的な被害の他に原子力発電所に関する風評が地域に被害をもたらしていました。柏崎市刈羽村の辺りは、海水浴客で賑わう海水浴場がいくつかあるようですが、今年はその数もまばらで、旅館・ホテルは1万人を超えるキャンセルを受けたそうです。地元の方だけでなく、関東地方からの買い物客で普段は賑わっている魚市場も閑散とした日が続いているそうです。風評の原因となった原子力発電所も、補修自体が来年半ば頃まではかかる見通しで、世界最大規模の出力(約820万KWの出力で発電量としてはおよそ東北6県分)を誇る原子力発電所の再開にも当分時間がかかりそうな様子でした。

今回の訪問は、このような地域の風評被害を少しでも払拭し、復興に対して希望と勇気を与えられればとの目的で日本プロ野球選手会(会長:東京ヤクルトスワローズ宮本慎也選手)が行った中越沖地震復興イベント「ベースボールクリスマス‘07 in 中越」に参加することが目的でした。

イベントには、プロ野球側は宮本選手会長はじめ、全球団から現役選手を中心にOB・審判員の方々総勢30名以上が参加しました。プロ野球にふれる機会のない街である刈羽村で行ったキャッチボールイベントには、村の人口4800人に対し2000人以上の参加者があり大いに盛り上がり、そこに参加した子供たちの歓声と笑顔は忘れられないものとなりました。

今回のイベントは、知名度があるプロ野球選手を通して地域復興を、というものでありましたが、同じく地震の被災地に住むものとして、自分の手で、何か小さなことでも貢献出来ることをしなければと強く感じた訪問になりました。