2006年会員便り

2017年へ
2016年へ
2015年へ
2014年へ
2013年へ
2012年へ
2011年へ
2010年へ
2009年へ
2008年へ
2007年へ
2005年へ
2004年へ
2003年へ
2002年へ




2006年12月号掲載

≪“恋”してますか?“愛”してますか?≫

松尾 茂樹(昭60商)

12月になると世間はクリスマス・モードになり、恋人や夫婦や子供へのプレゼントに頭と財布を悩ませることとなる。
ところで、“恋”と“愛”とはどう違う?

*“恋”は異性に対して使うが、“愛”は異性・同性にも使う。師弟愛・父子愛
*“恋”は人に対してのみ使うが、“愛”はその対象を選ばない。
*“恋”は一般に1人に対するが“愛”は複数同時に存在する。愛人、愛犬、家族愛、愛車、愛校、愛国・・・
*“恋”は脳で考え、“愛”は心で感じる。
*“恋”は意識してするもの。“愛”は無意識のうちに芽生えるもの。
*“恋”はその相手と一緒にいるとドキドキする。
“愛”はその相手と一緒にいるとホッとする。
*“恋”すると外見を磨こうとする。“愛”すると内面を磨こうとする。
*“愛”という漢字は真ん中に“心”があるが、
“恋”という漢字は一番下に“心”がある。つまり下心があるということ。
*“愛”はその相手に何かをしてあげよう、何かを与えようとする。
“恋”はその相手に何かをしてほしい、何かを求めようとする。
*“愛”には駆け引きはないが、“恋”には駆け引きがある。
*“愛”は見返りを求めないが、“恋”は見返りを求める。

私は“恋”する若さや新鮮さは、いつまでも持ち続けていたいかな・・・?
いじめ、自殺、誘拐、殺人など心苦しい事件の多い昨今、多くの“愛”を与えて、“愛”されている喜びを感じ、互いの“愛”を深め合っていけるようになりたいものですね。“母校愛”で結ばれている我々もより高め合えればいいですね。
皆様、来年もどうぞよろしく。よいお年を!

≪インド旅行≫

矢形 幸之助(平3法)

「はまると、またインドに行きたくなるぞ!」
そう言われて、送り出されたこの夏のインド旅行。でも、1度で十分。
もっとも、楽しくなかったとか、面白くなかったというわけじゃありません。
そこに根ざす歴史物語は、遺跡を眺めているだけじゃ決して得られない貴重なものでした(ガイドさん、有り難う)。

『タージマハール物語』
タージマハールは、白い大理石に宝石が埋め込まれた美しい外観が有名ですが、宮殿ではなく皇帝シャー・ジャハンが、亡妻マハール(皇帝ジャハンの7番目の妻で、当時の奴隷階級の出身だそうです。)のために建てた霊廟(お墓)なんですね。
このタージマハールの裏には川が流れていて、皇帝ジャハンは、向こう岸に黒の大理石で自らの霊廟を建築し、向こう側からは黒の、こちら側からは白の大理石で橋を渡し繋げることで永遠の愛を誓おうとしていたのですね(向こう岸にはその跡地が今もありますよ)。

もっとも、この計画はあまりにお金がかかりすぎるということで、第3皇子アウラングゼーブ帝の怒りに触れ、皇帝ジャハンはアグラ城に幽閉されてしまいます。
でも,この幽閉は皇帝ジャハン1人ではなく、マハールが生んだ娘が寄り添っていました。

娘は自分を生んだ14日後に母が世を去り、母のために霊廟を建てた父(皇帝ジャハン)は幽閉されていることに心を痛め、生涯父に寄り添うことを決心したのです。

皇帝ジャハンは、横に娘を置き一日中アグラ城から小さく見えるタージマハールを眺め、亡妻を想っていましたが、晩年老齢から視力が低下し、タージマハールが見えなくなってしまいました。

皇帝ジャハンを幽閉したアウラングゼーブ帝もさすがに皇帝ジャハンの余りの落ち込みように心を痛め、柱にダイヤモンドを埋め込んでダイヤモンドに映るタージマハールを見ることができるようにしてあげたのです。
黒の大理石の霊廟は完成をみませんでしたが、今、皇帝ジャハンの横には亡妻マハールが寄り添っているんでしょうね。

どうです、インドに行ってみたくなりましたか?そこには歴史だけじゃなく、恐らく50年前、日本はこうであったろうと思うエネルギッシュな世界もあります。
是非一度、インドを訪ねてみて下さい。そして想い出話を聞かせて下さい。

≪ちょっと一言≫
高嶋 哲夫(昭48工)

寒くなりました。
風邪をひかないよう、気をつけましょう。
うがいが一番。もっといいのは、外に出ないこと。
でも、難しいですね。
◎『アニマート3』が発売されました。
  これが最終回です。ぜひ・・・。
◎『ダーティー・ユー』(光文社文庫)の二刷りが出ます。「いじめ」がまた、クローズアップされています。僕の書いたものの中でも、意義ある一冊です。たくさんの子供たちが読んでくれて、少しの勇気を持ってくれるとありがたいです。
◎『ミッドナイト・イーグル』(文春文庫)二刷りが出ますが・・・もう出たのかな?
◎「重大な報告」またまた延びてしまいました。あーあ。本当に、ごめんなさい。でも、順調に進んでいるそうです。

2006年11月号掲載

≪私の戦い(2)≫

斎藤 光豊(昭24経)

『少年特攻兵との別れ』
○さや清けきめ瞳白きおもて面にえみ微笑見せて少年はあけ燒の空にゆ征きたり
○少年特攻兵出撃のきわ際我を見つめて兄に似たりとのこ遺して散りぬ
○戦場に我らさらばと別れたりいのち生命の別れのさらばと知りつ
○此の丘に肩組み南十字星仰ぎし特攻二番機還らず 『敗戦』
○あかつき曉のほう砲るい塁に流るゝ風を聴く敵来襲のけはい気配を探る
○敗戦の報到る弧塁守るわ我にスコールのなかぎょうぜん凝然とた佇つ
○敗戦の報に棄てたる砲塁の跡朝のひ陽にしらじらと見ゆ
○捕虜とうは如何なる扱い受くるやと兵は問えどもわれ我黙すのみ
○英濠兵たか昂ぶり銃剣突きつけぬ捕虜たる我らたちすく立竦みたり
○ためら躊躇うも若き英国ルテナント陸軍中尉捕虜我の贈る太刀をは佩きたり 『捕虜の島』
○捕虜たりし南の島にじんじんと音立つ如き月光をあ浴ぶ
○テニスンの詩をしょう誦しつゝ捕虜我は満月の浜に塩を作りぬ
○敗戦に自ら果てし曹長がえ彫りしゴムの木の「オカアサンバンザイ」
○流れ木を集めてとも戦友を燒きし朝と疾く燒けてくれと泣きつゝむ噎せぬ
○疲れ果て作業より帰る捕虜我ら英軍テント幕舎鳴るサイレントナイト

≪今年もまた留学生≫

藤井 文明(昭39工)

又引き受けてしまいました。何を?留学生のホームステイです。神戸市にある大学へ海外の大学から留学する学生を家で預かることをもう10年も続けていますが、預かる以上長期の旅行などが難 しくなり生活上での制約ができるので、もうお断りしようと毎年考えていました。しかし引き受け 手が少ないのでしょう是非にと依頼され、今年も21歳の米国人女性の留学生を預かることになりました。

今年もチャーミングな子で良かったとうれしく思ったのですが大きな問題がありました。日本食がご飯以外全く食べられないのです。味噌汁、漬物、野菜や芋類の煮物はもちろん魚は鮭以外全て駄目、肉は脂のところを1ミリでも切り離して赤身だけをより分けて食べると言う徹底ぶりで、おかげで小生夫婦の食事も全く以前と変わってしまいました。いわゆる「さし」が入った和牛肉でなく、赤身だけの米国産やオーストラリア産牛肉でないと駄目なのですが、今は近くのスーパーでは和牛肉しか売っていません。味噌汁はもうしばらく飲んでいませんし、朝食は毎日パン食になってしまっています。私達の目で見るとひどい偏食でしょうが、彼女は極めて健康かつ立派な体格で、170cmはある背丈と120cmにもならんとするヒップで、家の中が急に狭くなった気がするほどです。

たまに家内が外出して小生が夕食を用意する羽目になると、正に考え込んでしまいますが、鶏なら食べられるとのことで鶏肉のソテーを作ったらお父さんは料理が上手とおだて半分でしょうが褒めてくれました。ジャガイモは食べられるので茹でて塩味のものを食べてくれてほっとしました。サラダはきゅうりとレタスのみで、人参、たまねぎは全く受け付けません。それでも赤や黄のピーマンは食べるので助かります。家内がハンバーグステーキを作る時にはたまねぎを全部すりおろして形が見えなくしてうまくだましていますが、おいしいと言って食べてくれますから、味ではなく見た目の食感で好き嫌いを決めているようです。

預かった当初はひどいホームシックになり、クリスマスに一時帰国したらもう日本へは帰ってこないと決めていたようですが、最近はそんなことはすっかり忘れて携帯電話を手に入れてクラスメートと連絡し合い、新品の自転車を買って乗り回しています。

今年の夏に以前預かった子(と言ってももう40歳過ぎた人もいますが)3人の家を訪ねてイギリス、オランダへの旅をしましたが、彼女達が本当に再会を喜んでくれて彼女達の自宅で寝食を共にすると、本当に私達の自宅で一緒に暮らして良かったと思います。彼女達が学業を終えて帰国する際いつも言ってあげる言葉は、君は私達の娘だからいつでもここへ来て一緒にご飯を食べ、いつまででも泊まっていっていいのですよと。

≪歴史の終わり≫

島田 博充(昭48商)

アングロサクソン系のリベラルな民主主義とは、生命の権利すなわち自己保存の権利とか、財産獲得の権利として一般には理解されている幸福追求の権利であるが、ドイツ観念論の系統にあっては、それだけでは十分でなく、リベラルな社会とはさらに人間的な要素、すなわち其々がお互いに認め 合うという、認知の要素がなければならないとしている。

人間の歴史は、決して生命の維持や財産追及だけという面から理解されるのではなくて、他者に認められたいという願望の要素を考慮に入れなければならないというのがヘーゲルなどの考え方である。これは、どう考えてもアングロサクソン系の考え方より、もう一段高い次元を付け加えたものである。すなわち人間の尊厳とか他者と対等なものとして認められたいという欲求があればこそ、フランシス・フクヤマ氏の指摘のようにアメリカの独立もありえたのである。しかし、現代に於いては多元的な社会問題が出現しテロなどが頻繁に起こるようになった。戦後アメリカの哲学者ロールズが理想として描いたのは、公正としての正義に基づき助け合い、重なり合う合意で基本理念を共有し、思想、信条の違いを超えて、差別をなくし共存する世界であった。我々の身近においても、このような理念を持って接すれば倶楽部も益々発展することでしょう。

(フランシス・フクヤマより引用)

2006年10月号掲載

≪ババ連れ・ジャリ連れスイスツアー≫

近藤 正(昭39商)

マラソン好きの義理の姉から「スイスに行かない?」と誘われて、実の姉や娘も誘ったところ、二つ返事で乗ってきたので、7月中旬から10日余りスイスを旅行した。義姉は、ボストンマラソンに数回出場したり、サロマ湖100Kmマラソンを走破した猛者(猛女?)で、ユングフラウマラソン(今回は不参加)で得た土地勘を生かして、スイスの山々を案内してくれるというものだった。

インターラーケンとツェルマットに各5泊、チューリッヒに1泊で計11泊したが、快晴続きで、ロープウエーに乗ってのアルプスの名峰の数々、草原に広がる花畑、澄んだ湖、雄大な氷河…などスケールの大きい風景を満喫した。特に、湖面に逆さに映るマッターホルンや、苦労して見つけたエーデルワイスは感激だった。スイスは物価が高いので、ロッジ風のホテルに泊まり、日本から持参のお米や麺類で自炊した。おかげで節約できたし、みんなでビールやワインを飲みながらのワイワイガヤガヤはとても楽しい思い出となった。地元料理のワイン入りのチーズフォンデユーは、高いだけで格別うまいとは思わなかった。74歳の姉と1歳半の孫の体調が一番気になったが、最後まで元気だったので、関空に着いた時はホッとした。孫は2歳以下なので、航空運賃は大人の1割で済んだが、訳のわからぬままにひっぱりまわされて、いい迷惑だったのでは…。 でも、家内と二人で旅行すると些細なことで喧嘩になるが、今回は孫のおかげでそのヒマも無かったのは幸いだった。

≪秋の慶早ゴルフ対抗戦≫

森本 泰暢(昭60法)

9月7日(木曜日) 慶早ゴルフコンペが神戸ゴルフ倶楽部にて開催されました。 神戸早稲田倶楽部より木下会長をはじめ10名、当倶楽部からは13名が参加しました。小雨ではありましたが楽しくプレーができ、ゴルフ場ロッジでの懇親会は、恒例の松茸のすき焼を囲みながら大いに盛り上がりました。

対抗競技は各倶楽部の上位7名によるネット合計で競われ、結果は神戸慶應倶楽部が僅差で勝利致しました。個人戦では神戸早稲田倶楽部の廣川雅英さんが、奥様の廣川守さんが欠席ということもあり、のびのびとしたプレーで優勝されました。2005年春の慶早ゴルフコンペでも奥様が欠席のときに優勝されており、慶應としては刺客として廣川夫人が参加することが、勝利への道と確信致しました。2位は芳川玲子さん、3位は鍛冶川玲子さん(鍛冶川清司夫人)が入賞されました。

参加者は以下の通りです。(敬称略)
広瀬 努・森本富夫・一宮弘忠・八巻晤郎・天木 明 芳川玲子・鍛冶川清司・鍛冶川玲子・多木良晴・山上高弘 延原耕三・山野昭彦・森本泰暢

≪ワグネル男声合唱団の神戸公演≫

淺沼 清之(昭36経)

9月10日(日)14時より、神戸文化ホールにおいて、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の神戸公演が開催され、神戸慶應倶楽部からも、快く協力する為に、広瀬会長ご夫妻はじめ、多数の会員が参加して、重厚な響のワグネルトーンを堪能しました。明治34年に、最も古い学生団体の一つとして発足したワグネル・ソサィエティーは、優れた先輩を多数輩出してきましたが、慶應義塾が、創立150周年を迎えるに当たって、さまざまな記念事業を展開している中で、ワグネルの神戸公演が実現したことは、意義深いと思います。公演旅行は、3年ほど前から再開されたそうですが、団員の皆さんにとっても、地方公演は得難い経験だと思いますし、いっそうの成長をもたらすに違いありません。普段は距離的に 交流の難しい、神戸女学院大学コーラス部の、賛助出演の協力を得たことも、ステージの巾が広がり、私達を楽しませてくれました。今後、更なる飛躍を期待する次第です。

2006年9月号掲載

≪私の戦い≫

斎藤 光豊(昭24経)

歌歴わずか4年、拙歌を投歌します。

『学徒動員(昭和18年12月1日・1943年)』

○学徒動員壮行会に少女らの「惜別の詩」おえつ嗚咽にむせぶ

○清く散れ名こそ惜しめつわもの強者と唄われてゆ征きしまなびや学舎の丘

○とお杳き日の学徒動員我が父は生きてくれよとそっと云いたり 『南へ』

○あか灯り消し激戦地へゆ征く船の上サザンクロス南十字星をひたに探せり

○う生みの母の顔見たかりしと船上に我が手握りて逝きしとも戦友はも

○ハイナム海南島沖にとも戦友葬りし元日の暗きはとう波濤よむととせ六十年過ぎぬ 『戦場』

○しつよう執拗に地上そうしゃ掃射し去る敵機生きているかの声と飛びか交いぬ

○ほうせい砲声や止む星美しくなぜ何故俺は此処に居るのかせめ鬩ぎ合うのか

○ひ灯に寄りて糸通す母の横顔をおも懐いておりぬ戦場の闇 (註)「惜別の詩」島崎藤村若菜集 “きみがさやけきめのいろも きみくれないのくちびるも きみがみどりのくろかみも またいつかみむこのわかれ“ 「惜別の詩」は今猶カラオケでなどで唄われていますが、あれは昭和19年に中央大学生によって作曲されたもので、我々が出征する時は大声で誦するのみでした。 それでも5・6人のセーラー服の女学生が清い涙を流して誦してくれました。淡い恋心を感じた人もそのなかにいました。 小生83才まだまだなまぐさいですね。

≪白浜旅行≫

河合 良行(平2経)

夏になると仕事が忙しい為、なかなか家族サー
ビスできません。ようやく連休がとれたので久し
ぶりに和歌山の白浜に行ってきました。息子も2歳半になったのでアドベンチャーワールドに是非連れて行きたいと思っていました。私自身、白浜に来るのは15年ぶりでしたが、最近は交通の便もよくなり昔は5時間かけて行っていたのが2時間半程で付く事が出来ました。

アドベンチャーワールドに入るとすぐに噴水があるのですが、驚いた事に何故かペンギンが泳いでいました。動物園ならガラス越しに見るくらいで、間近で見ることの出来ないペンギンが目の前で泳いでいたので息子も喜んでいました。でもやはりここでの見所はイルカショーです。鯨のように大きいイルカ(少しオーバーですが)が繰り出す技の数々!高いジャンプで観客席は水浸しでした。興奮冷めやらぬうちに今度はサファリへ。普段は近くの王子動物園に行く事が多いのですが、この日は車の中から動物が見ることができるので、息子も興味津々!しかし、さすがに夏は暑いのかトラやライオンは、バテバテでぴくりとも動きませんでした。

結局息子が一番喜んだのは、犬とのふれあい広場でした。動いている犬は、なかなか捕まえられないので寝てる犬を探しては、なでなでしていました。今日はそんな息子の為の一日で終わりました。その後は宿でのんびり。白浜海岸を見ながらゆっくり露天風呂につかりました。
この日は、少し天気が悪かったものの露天風呂からは、白浜海岸に打ちあがる綺麗な花火が何十発も見ることが出来きてとても満足でした。息子は花火が上がるたびに「わー、すごい!」と感嘆の叫び声をあげていました。わが子ながら贅沢?な旅行でした。

次の日は、あいにくの雨でしたが久しぶりの白浜をのんびり楽しんで帰りました。

≪ロンドン三田会との交流≫

藤井 文明(昭39工)

久し振りにロンドンを訪れ、ロンドン三田会の皆さんと交流してきました。今回はまずマンチェスターから旅を始め、郊外に居を構える藤岡幸夫(関西フィルハーモニー管弦楽団正指揮者、神戸慶應倶楽部会員)夫妻を訪ねました。彼は日本国内での演奏活動を充実する為、当地を引き払って日本へ引越しする真っ最中にお邪魔してしまいましたが、快く迎えてくれて音楽談義と美味しい食事で時の経つのを忘れました。翌日には風光明媚なチェスターを、翌々日にはリバプールを訪れ、その次の日にはリーズを訪れてホームステイとして家で預かった二人の若い女性と再会しました。一人はドイツ人のアニタ、もう一人は中国系のエレンで、アニタの真新しいアパートで三日間も泊めて貰い、食事もお世話になりました。その後ロンドンへ移動し、地下鉄駅の近くが便利と決めたホテルが実は駅が改修中で閉鎖されており、一つ前の駅から鞄をごろごろ汗をかくところでしたが、寒いくらいの気候で汗かくことはありませんでした。折角ロンドンで滞在するならロンドン三田会の皆さんと交流しようと予め連絡しておいて、会長の石田君、副会長の山本君、代表幹事の小峰君、常任幹事の岩田君などが日系の居酒屋「安芸」に集まり、ビール、焼酎、ワインと日本料理に舌鼓を打って大いに語らい合いました。「安芸」の経営者も塾員でロンドンの皆さんが贔屓にしている店でした。外国で頑張っている塾員をねぎらいつつ、日本での再会を期待する旨約束して名残惜しくお別れしました。その翌日にはローヤル・アルバート・ホールでBBCフィルの演奏を聴く贅沢もやってきました。

その後オランダへ移り、スキポール空港から近いライデンにて、やはり家でホームステイしたオランダ人のアニタの家で三日間泊めてもらいました。食事も全て私が作るから外では食べないでと言ってくれて、少し塩辛いパスタ料理をふんだんに作ってご馳走してくれました。ホームステイしている時には生活習慣上の行き違いもありましたが、こうして大変喜んで受け入れてくれると本当にホームステイを預かって良かったと感慨深い思いです。

帰国した翌日にイギリスでテロ未遂が摘発されて空港が大混雑しましたが、それを直前のところで切り抜け幸運に帰国できました。

2006年8月号掲載

≪平次「御用だ!」≫
〜野村胡堂記念館へどうぞ!〜

地方会員 辰野 芳之(昭42経)

平次:「ご用だ! 神妙にお縄につけ!」とくればご存知「銭形平次」ですが、最近はTVのレギュラー番組もなく、若い人では知らない人がいるかも知れない。

盛岡まで新幹線で行き東北本線を紫波中央、日詰駅へ戻る。先に降りた中年二人が「一度来たかったんだがやっと来れた」と言いながらタクシーに乗り込んでいる。(他にもファンが居た。)私と家内も2台目に乗る、駅前食堂や郵便局を越えればすぐ田んぼの中の道、北上川には雪解け水がとうとうと流れ、これを渡るともう登り道。7〜8分で高台にある記念館に着いた。

眼下には北上平野があり、胡堂の実家や残雪の岩手山が望め、もうゆったりした気分になってくるから不思議なもんだ。

建物も小さな庭もなかなか瀟洒で好ましい。胡堂は「あらえびす」という名でレコード評論にも活躍し、ン万枚のレコード収集家としても知られていた。館内には氏の生い立ちや、時代背景、そして銭形平次やレコードコレクションなど、それぞれのジャンルから、野村胡堂の作品等が立体的に分かるように展示の工夫がされており、とても気持ちよく一巡できる。(こじんまりしているからかも)コーヒーのサービス(有料)もグッド。

土産に文庫本の「胡堂百話」を求めてきた。氏の生き様も語り口も実にさわやかで、読後のすがすがしいこと請け合いです。もっとも 多少の時代 差(登場人物や背景)も感じますが、それも歴史の勉強になるでしょう。

神戸から岩手はいささか遠いけれど、賢治や啄木の足跡と、遠野の民話の里と、北上の藤原三代の栄華の跡と、盛岡冷麺や三陸の海の幸と、東北の温泉場と、などなど組合わせて訪問してみるのも一興でしょう。時々コンサートも開催しているのでそんな時に訪ねるのも良いでしょう。

ア そうだ。銭形平次誕生には銭高組が関連しているもよう。上の百話に書いてあった。 新発見!

2006年7月号掲載

≪上海グルメ旅行≫

藤井 文明(昭39工)

5月の下旬、関空から2泊3日の旅程で上海へ行って来ました。
以前に香港、マカオには行ったことがあり、中国へは二度目の旅行です。

今回はグルメの旅と銘打った少人数の団体旅行で、塾工学部同級生である藤本元君(現同志社大学工学部教授)の夫人文子さんが京都ホテル中華料理部門の料理長から料理法の勉強を受けておられ、その料理長が引率しての旅で、彼女から誘われて同行したものです。
宿泊先の花園飯店(ホテルオークラ)でのディナーやテレビ塔すぐ横にあるかもめの形を模したレストランでの海鮮料理を楽しんで来ました。
又花園飯店での食事の際には途中で合流された京都ホテルの社長で塾員の島津忠之氏(昭43経・京都慶應倶楽部会員)も同席され、和気藹々の打ち解けた晩餐会を楽しみました。

香港では狭い土地で多数の人口を支える為に高層ビルができるのは必然でしょうが、何と上海でも超高層とも言えるビルが無数に建っている印象で、広い国土でなぜ上に向けて建物を作るのかと疑問を生じました。
しかし上海市の人口は15百万人(第一は重慶、二番目が上海、三番目が北京とのことです)とのことでやむなく納得。それらの超高層ビルはデザインも外壁の色も非常に個性的で見て飽きない感じでした。

旅行中の圧巻は二つありました。第一は上海博物館です。
見学時間が1時間ほどしかなく、走り回って見た感じでしたが、陶磁器や宝石類、書画など丸一日見ても飽き足らない展示品の数々でした。
ここへはもういっぺん行きたい思いがしています。
二番目は上海雑技団の諸々の演技です。素晴らしい曲芸あり、鋼鉄の網で出来た丸いかごの中でオートバイが5台も走り回るのは正に驚異的な技でした。

街中は非常にきれいにされています。道路脇には花が植えられ、高速道路でも両脇の柵に花が植えられ気持ちよく道を走ることができます。
しか し有名な庭園である豫園を訪れるべくバスを降りたら多数の物乞いが現れ、手を差し出す様はこの国の近代化にはまだ数十年の歳月が掛かりそうとの印象を持ちました。

市内のデパートに田崎真珠の店がありうれしい気分になりましたし、町のあちこちに上島珈琲(但し珈琲の文字が王へんではなく口へんであったのは漢字の国の発想によるものでしょう)の看板がありこれも同様の気分でしたが、後日神戸慶應倶楽部上島元会長にお尋ねしたところ、以前に上島の商標の使用許可を与えていた台湾の法人が現在も独立に上島珈琲と使っているもので、元会長の会社とは現在は関係がないとのことでした。

空港からの往復する高速道路の横にリニアモーターカーの線路があり、時々400キロ以上の時速で走り去る列車が見えましたが、車両が小さく編成も確か4両でしたからまだ商業運転としては採算が合わない状態であろうと感じました。

この国は正に驚くべき進歩を遂げつつあるとの印象を持って帰って来ました。
写真1は上海博物館前からの景色。写真2は旧フランス租界の洒落た商店街。

≪未知への道すがら≫
森本 周子(昭25文)

平成18年5月14日、「母の日」に、湯川スミ叔母(私の父小川芳樹の弟の湯川秀樹夫人)が、96歳でこの世を去った。
長男芳樹の娘であった私は仙台で生まれたが、京都の祖父母の家に行った折には、当時未婚の叔父達ならびに、後年その夫人となった叔母たちとは馴染みであった。

私共一家が昭和16年、東京に移ってから毘沙門町の家で、祖父が亡くなった時、お焼香や読経が終わり、隣室で休憩の時、私が言い出して叔母達と手をつなぎ、輪になって「かごめかごめ」を歌ったりした事を、今でも昨日のように覚えている。

次男貝塚茂樹夫人も長身の美人であったが、三男の秀樹叔父夫人は、小学生の私と同じ気持ちになって、ニコニコしながら遊んで下さった。
小川の母が50歳をすぎて間もなく戦後、病を得て急逝した時以来、「チカちゃん、お母さんの代わりになってあげる」と言われた。

東京から、私が神戸に嫁いで来てからは、毎年一族が京都の叔父達の家を廻り持ちで新年会を1月3日に開き、父も参加して私の娘や息子も加わり楽しいお正月であり、秀樹叔父没後もスミ夫人は我が家のメンバーに目をかけて下さった。

兎に角、スミ叔母がいる所、まわりが明るく花の咲いたような存在となって、社会的にも、真底世界連邦の催しにうちこんで、名誉会長になったのも当然の結果である。

時々、娘のない叔母は「チカちゃん、秀樹さんは『あんたは事務的才能があるな』なんて、言うてはったわ」と笑いながら、他の思い出話と共に打ち明けられた。

96歳迄、生きて下さった有難さをかみしめつつ、大きな穴があいたような空虚感に襲われる日々、今頃はあの世で叔父さんと仲よく話がはずんでいる事であろう。二人共、笑顔よしであった。
その面影は、私の心の中に永久に行き続けるであろう。

2006年6月号掲載

≪インド旅行≫

浅沼 清之(昭36経)

4月中旬に、6日間ほど気軽なインド旅行に、家内と出かけて来ました。

関空からシンガポール経由でデリーに飛び、デリーから国内線でベナレスに移動、ベナレスから夜行寝台列車に12時間ほど乗ってアグラまで行き、アグラから車で4時間程かけてデリーに戻るという、北インド中心の行程です。

デリーは、1912年に英国が首都をカルカッタから移し、首都ニューデリーの整然とした街並みが見られる一方、13世紀のデリー諸王朝から19世紀のムガール王朝まで、いくつかの王朝が栄え由緒ある遺跡が数多く残るオールドデリーが対照的に組み合わされた街です。加えて農村部という3つの顔を持っています。

16世紀に、モンゴルの血を引くバーブル皇帝がデリーの新しい支配者になってムガール帝国が始まりましたが、このムガール帝国の歴史を辿るのが今回の旅であることを最初に実感しました。第5代皇帝シャー・ジャハーンが建てた巨大な城ラール・キラーは、オールドデリーの中心的存在と思われます。ヒンズー・イスラム両様式の混ざったクトウブ・ミナールという高い塔と隣のインド初のモスク跡は、歴史深い街の象徴となっていました。

ベナレスはヒンズー教最大の聖地。街を流れるガンジス河で人々は歯を磨き洗濯をし、遺灰も流します。聖と俗が混在する場所ですが、ヒンズー教の教えでは、この河で沐浴をすればすべての罪を浄められると言われます。河岸にある段階状の沐浴場(ガート)での、聖なる沐浴風景を私達はボートに乗って夜明けと共に見学しました。

煙の上がる焼き場の傍では、遺灰を流す白衣の人の姿が見られました。ベナレス・ヒンズー大学の構内を見学中に、人々が亡くなったばかりの職員の妻に衣装を着せて担いで歩く光景をたまたま見かけました。これからガンジス河の焼き場に運び、遺灰を流すと聞きました。
ベナレスから北東に10キロ離れたところに、ブッダが最初に説法をした地として知られるサルナートがありますが、世界中から多くの仏教徒が訪ねるようです。
6世紀に造られた巨大な仏塔ダメーク・ストゥーバの周りには、巡礼する多くの僧の姿が見られました。

アグラは、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(17世紀)が、22年の年月をかけて建てた帝国繁栄の象徴タージ・マハールで知られる街。この霊廟は、若くして亡くなった愛妃のために皇帝が建てた総大理石白亜の建物で、左右対称のその美しさには溜め息が出ます。
しかし完成後、この皇帝は息子に幽閉され、タージ・マハールを外から眺めて毎日を過ごすという運命であったようです。

10億を超える人々が暮らすインドには、さまざまな宗教、多数の言語が存在し、料理やサリーの色柄さえ地方により異なるそうですが、そんな多様性を包括するインドを、わずかながら肌で感じたように思います。道路には、牛や犬が思い思いに歩いたり寝そべったりする中を、汚れた人力車や二輪車、自転車、溢れんばかりの乗客を乗せたタクシーが行き交う光景が印象に残ります。ベナレスの駅のプラットホームにも、牛がうろうろ歩いているのには驚きました。

買い物で代金をごまかされたり、家内が寝台車で足を踏み外し肋骨にひびが入ったりするハプニングもありましたが、これも旅の思い出になると思っています。

2006年5月号掲載

≪読後雑感≫

村上 功(昭39工)

最近、お茶の水女子大学理学部教授の藤原正彦氏著『国家の品格』を読んだ。

私も知らなかったが、氏は父に作家の新田次郎、母に作家の藤原てい を持つ数学者でありエッセイストでもある。本屋にめったに行かず、アマゾンで講義に必要な専門書を購入する程度の私にとって久しぶりに共感を持てた70万部を超す硬派のベストセラー書であった。諸外国から尊敬され、一目置かれる国とは、軍事大国でも経済大国でもなく、品格を持った国である…が彼の一貫した主張である。

最近のグロ−バリズム、市場原理主義は世界の潮流だから日本も遅れをとるな、そのために幼児期から英語を、小学生、中学生にも株の知識をとしきりに言われるようになっても、誰も「それはおかしい」と言わない国にいつの間になってしまったのか…。

藤原さんは、子供のうちに英語力よりしっかりした国語力を身につけさせること、経済の仕組みを教えるより、美的感受性を育ませることの方がはるかに重要であると説いている。実利的ですぐに役に立つ知識や技術よりも、子供のときから日本古来の文化である「情緒」や「形」を教え、身に付けさせることこそが初等教育の最優先事項であるという。まったく同感である。特に、「失われた10年」といわれるバブル崩壊後の日本の急激な変貌ぶりを見ればその感をいっそう強くする。

昨今、日本で進行している家庭や学校、社会の荒廃は、家庭における躾不足、学校における徳育を無視した知育偏重の実力主義、まさにそうした結果であろう。欧米社会での、治安の悪化、麻薬の氾濫、学力低下、家庭崩壊、などに加えて、狂信的なイスラム原理主義の台頭などは、西欧諸国の発展を支えてきた近代合理主義の破綻である。

日本でも声高に言われる無分別な実力主義、リストラクチャリング(本来は「事業再構築」と言う意味)と言う美名のもとに多くの企業で実行された首切りによるコスト削減、文部科学省による意味不明のゆとり教育、円周率を「3.14」ではなく「3」と教えろという間違った初等教育指導要綱などが日本の品格を貶めた原因の一つとさえ思ってしまう。話は横道にそれるが、円周率を「3」にしてしまうと円に内接する正六角形の外周と円周が同じ値になってしまう。図を描けば幼稚園児が見てもそんなことはおかしいなと思う。 ただし、実力主義がすべてだめと言うことではない。今の小学校の運動会は本当につまらない。徒競走で順位をつけない、否、つけてはいけないのである。みんな仲良く元気に走ることが大切で、普段、勉強では肩身が狭いが体力に自信のある子供にとって、その時期だけでもクラスのヒーローあるいはヒロインになれる機会は完全に失われているのである。平等にチャンスが与えられる社会でなければならないが、結果も平等でなければならない社会には発展はない、ただ滅亡を待つのみである。そのためか、進学率が上がった昨今の大学生のメンタリティーは昔の高校生レベルであり、その常識のなさは目に余る。日本の家庭の躾と初等教育が原因の一つと信じて疑わない。

私は西欧企業との合弁事業に25年以上携わった関係で米国人、英国人の親友がいるがアングロサクソンの香りが漂う「グローバルスタンダード」と言う言葉が嫌いである。世界中に色々の文化、伝統、価値観を持つ国々があり、それぞれの国には独自の規範があり、最初から「世界共通の規範」などあるはずがない。特に日本には有史以来、どの国とも異なる固有の文化、価値観を培ってきた伝統がある。それを簡単に捨て、「アングロサクソンの規範」を錦の御旗にしてよいものだろうか…。私は学生にも「グロ−バルスタンダード」とは「グローバルルール」と解釈すべきであり国際試合における「共通の試合のルール」と同じであるから、その国のプレイヤーの身体能力に見合ったゲーム戦略、戦術を使わなければ国際試合には勝てないと教えている。

藤原さんはさらに言う…。
日本が16世紀の大航海時代以降、欧米の植民地支配を免れた原因の1つに、日本が他のアジア諸国に比べて品格のある国家と認知されていたからであると。それは、16世紀から17世紀に我が国においてキリスト教の布教に携わったルイス・フロイス(1532-1597)をはじめとする4人の宣教師が、当時の日本の現状をイエズス会本部や上司に宛てて書き送った報告書と請願書を見ても明らかである。幕末から明治の初めにかけて、日本の多くの使節団が米国や欧州を訪問したが、後進国の人間だと思っていた彼らの物腰、佇まいに日本人の高い精神性を感じ取り、日本という国への高い評価に繋がったのではないだろうか。これこそがわれわれ日本人自身が今、取り戻すべき「国家の品格」そのものである。  

最近日本以上に「国家の品格」が低くなった経済成長至上主義の国の言動に一喜一憂する政治家の存在を嘆く昨今感じたことでもある。

≪慶早ゴルフ対抗戦≫

森本 泰暢(昭60法)

4月4日(火)に廣野ゴルフ倶楽部にて開催されました。

神戸早稲田倶楽部より木下会長をはじめ11名の参加を頂き、当倶楽部からは18名が参加し、絶好のコンディションのなか、プレーと懇親会で大いに盛り上がりました。

対抗競技は各倶楽部の上位7名によるネット合計で競われ、結果は神戸慶應倶楽部が30ストロークの大差をつけ勝利致しました。個人戦では優勝: 森隆さん、準優勝:伊藤協治さん、3位:森本泰暢と慶應が1・2・3位を独占しました。(記:森本)

参加者は以下の通りです。

五代友和・森 隆・森本富夫・伊藤協治・田嶋紀雄・芳川玲子・龍田省吾・多木良晴・鍛治川清司・鍛治川玲子・芦原直哉・内山景介・山上高弘・喜多村晴雄・渡辺義博・茂木立仁  石崎雄三・森本泰暢

≪慶應Vs関学・アメフト定期戦 応援記≫

黒田 豊夫(昭37政)

4月22日(土)に神戸王子スタジアムで慶應義塾大学ユニコーンズと関西学院大学ファイターズのアメリカンフットボールの定期戦が開催された。午後1時30分のキックオフ、慶應レシーブで試合が開始された。

慶應は昨年末、関東で好成績を収めており、かなりの好ゲームが期待された。開始直後は緊迫した展開で両軍硬いディフェンスで一進一退を繰り返したが、第1Q中盤に関学が26ヤード地点からのキック成功で3点を挙げてから、試合が動き始めた。第2Qからは関学のショットガン攻撃に慶應のディフェンスが思うように機能せず、苦戦を強いられる展開となった。しかしながら第4Q後半には慶應が果敢なランプレーで猛反撃に転じたが、既に遅く、結果的には42対0で関学が勝利した。アウェーでの圧倒的な関学応援団に対し、我が神戸慶應倶楽部メンバー4名も慶應応援団と共に「若き血」を歌い熱い応援を繰り拡げた。それにもまして、劣勢ではあったが最後まで奮闘した選手全員の敢闘精神に大きな拍手を送ってやまない。

2006年4月号掲載

≪「若き血」≫

〜屋久島原生林によみがえる〜

田嶋 紀雄(昭38工)

 

関西婦人三田会のお誘いを受け、3泊4日の種子島、屋久島旅行にKLA会員10名と男性2名(井上光さんと私)で行ってきました。参加者の半数は初対面でしたが、初日の種子島の昼食の時から名前と顔が一致するようになり、塾の女性特有の気配りと優しさで、打ち解けた旅をすることが出来ました。

初日は種子島鉄砲会館や千座の岩屋、ロケットセンターなどを見学の後ホテルへ、静かな一日でした。

2日目は風が強く高速艇が荒波の上を屋久島まで運んでくれましたが何名かは船酔いでグロッキー。しかし屋久島のバスガイドさんの名案内で気分回復し、屋久杉自然館、ボタニックガーデンや雪の残る屋久杉ランド紀元杉などを見学。ガイドさんの名文句を少し紹介しますと、「パパイヤには雄の木と雌の木があるが、雄の木がなくても雌の木だけで実が成るとか。雄の木は念のために生きているだけで、花が咲き雌雄の判別が出来れば雄の木は邪魔になるので伐採される。だからパパイヤと言う。」「色々な酒飲みがいるが究極は笑い上戸と泣き上戸に分類され、笑い上戸はハッハッで64、泣き上戸はシクシク36、合わせて100。だから酒を百薬の長と言う。」などなど。こんな調子でした。

「国民の酒焼酎」の歌の披露や名文句を聞きながら、モッチョム岳の借景が素晴らしい岩崎ホテルへ。硫黄泉の温泉で体を癒した後、楽しい夕食。その後、女性軍が我が男性(軍)の部屋に押しかけ酒盛り。すっかり打ち解けて、常に笑いこけていたが何を話していたのか今となっては記憶に残っていない。

第3日、船酔いした3人の女性陣が早朝5時に出発で縄文杉までの7時間トレッキングコースに挑戦。雪の残った難コースを撃破したとか、ますます元気で戻ってきた。残りの9名は早歩き組とゆっくり歩き組に分かれて9時ごろ出発の比較的緩やかな白谷雲水峡トレッキングコースに(参加者の年齢では挑戦に値するかも)出発。日頃の精進がよかったのか、前日の雪が舞うような天気が嘘のような雲ひとつない晴天。厚着の装備も不必要で汗ばむまでの好天気に恵まれました。私も撮影目的でこのコースに参加しました。早足組は弥生杉まで足を延ばしましたが、ゆっくり組はガイドさんの案内で二代杉、三本足杉、奉行杉、七本杉など原生林コースをもののけ姫の森までのトレッキング。ここでの主役は井上さんで体重オーバーの体を運ぶのに一苦労。自らのついた杖に足を絡ませて転倒して頭をうったり、苔むす岩に足を滑らせて川にドボンとはまったり。周りをヒヤヒヤさせてくれましたが、悪戦苦闘しながらも何とか完歩。めでたしめでたしでした。お蔭様で私はあちこち歩き回って写真撮影が出来ました。奇しくも3組ともホテルに戻ったのが夜の6時過ぎと同じ時間でした。

3日目の夜は女性軍が酒とつまみを用意してくれ、全員私達の部屋に集まり夜中まで酒盛り。「国民の酒焼酎は安くて回りが速い」の歌の文句そのままに、酔うほどにモテモテなのかイビラレタのか分からない状態で明くる日は二日酔いでした。

4日目は帰宅の日でしたが昨日の好天気が一転して暴風雨。屋久島は雨が多いとは言うもののこのような風雨は珍しいとか。一歩も外に出られず、飛行機が飛ぶかどうか心配しながらチェックアウトしてホテルで昼食。そうしている内に雨もやみ千尋の滝、竜神の滝を見学する頃には日も差し、土産物屋で買い物をして飛行場へ。1時間ほど遅れの飛行機に乗って乱気流の中をゆらゆら揺れながら鹿児島経由で無事伊丹へ到着。本当に楽しい仲間で又の機会を期待しながら各自家路につきました。

ここに掲載したお弁当のひと時の写真は表題のようなタイトル 「若き血」〜屋久島原生林によみがえる〜をつけて150周年「オール慶應写真展」に応募しました。選考をパスすれば10月19日から銀座松坂屋で展示されます。ご期待下さい。


2006年3月号掲載

≪神戸空港のご利用を≫

諌山 一彦(昭53文)
(神戸市産業振興局)

紆余曲折はあったが、2月16日神戸空港が開港した。同空港は遡れば約60年前の戦災復興計画に登場し、1973年には当時の市長が神戸沖建設を反対し(関空社長からは「歴史的責任」の弁)、1982年、市が再度「神戸沖新空港計画」を表明してから24年目の開港である。

国内7都市に就航し、1日27便、2500メートルの滑走路を持つ1日15時間運用の海上空港であり、私の知るところでは海外ではイタリアのジェノバ空港と似ている

神戸は従来、空港がないため県庁の所在地の中で、津、奈良と共に東京から一番遠い(所要時間)都市と言われてきた。この度の開港で航空機を利用すると、空港までのアクセス時間を含め約2時間余りで東京に到着し、東京は近くなった(新幹線ではほぼ3時間)。

神戸空港の開港で神戸の「都市装置」はほぼ完成したと言える。課題が多いことも確かであるが、開港を前提として進められてきた「神戸医療産業都市構想」(別の機会にご紹介したい)をはじめ、震災10年を経て神戸の新たな展開に寄与する使命が空港にはある。その為にも「空のみなと」の長期的な利用が欠かせない。

皆さま、神戸空港のご利用を!

≪海外スキー≫

浅沼 清之(昭36経)

会社をリタイアして以来、冬場は毎年ヨーロッパやアメリカ、カナダまでスキーに出かけるのがここ数年の慣わしになっています。多少の緊張感を要することと、現地で体調に留意することが、老化防止に少しは役立つように思います。

今シーズンは、新年を大学ゼミのOB仲間とカナダのウィスラーで迎え、2月4日から9日間、会社のOB仲間と、スイス・グリンデルワルドのユングフラウ・スキーエリアに出かけてまいりました。チューリッヒからバスで、インターラーケン経由で入ります。アイガー北壁の懐に抱かれ、周辺のスキーエリアの総滑走距離は200キロに及びます。

グリンデルワルドから最も近いフィルスト、ヨーロッパ最長のゴンドラで上るメンリッヒェン、映画007のロケの舞台になったレストラン「ビッツグロリア」のあるシルトホーン、そして、ワールドカップで有名なウェンゲン等、変化に富んだスキーが楽しめます。メンリッヒェン・ウェンゲン地区は、グリンデルワルドから登山列車で約40分登るクライネシャイデックを拠点にして、ゴンドラを使って移動します。シルトホーン地区は、ロープウェイを4本乗り継いで、標高2971米の山頂に上り、ダイナミックなスキーを楽しめる地区となっています。

アイガー・メンヒ・ユングフラウ(4158米)の三山が、滑走する斜面によって夫々異なる姿を見せています。今回は連日好天気に恵まれ、眺望を楽しみながら、滑ることができました。高齢グルーブのため、一日休養日を設けて、首都ベルンにも足を伸ばしてまいりました。バスで約2時間、湾曲するアーレ川に囲まれた地形を活かし、12世紀に作られた美しい旧市街は、世界遺産にも登録されています。大聖堂や時計塔、見事な彫刻の噴水等、見所の尽きない日帰り小旅行となりました。

あと何年、海外スキーが続けられるのかわかりませんが、心身の健康に留意して、もうしばらく出かけたいものと、念願しています。

≪リゾート鈴鹿音楽祭に行って来ました≫

藤井 文明(昭39工)

2月18日の午後5時から鈴鹿サーキット内にある会場で音楽祭が開催され、神戸慶應倶楽部会員でもある藤岡幸夫が指揮する関西フィルハーモニー管弦楽団との競演でピアノ、チェロの協奏曲が聴けるとあって、青戸統子様、井上光様ご夫妻を誘って1泊2日のゆっくりした旅程で行って来ました。

鈴鹿サーキットに音楽が演奏できるホールがあるとは思えなかったのですが、やはり会場は宴会場3間を続けて大広間にしたところで、席から演奏者の顔が見にくいなどの難点はあったものの、却って天井が一般ホールより低いこともあって残響が大きく、いい音響で聴けたと満足しました。

ヴェルディー、ロッシーニのオペラ序曲、グリークのピアノ協奏曲、ハイドンのチェロ協奏曲などが演奏され、大いに耳を肥やした後には盛大なパーティーがあり、藤岡幸夫ほかの出演者が挨拶やスピーチを披露し、その後はパーティー会場内で歓談やら記念撮影などで実に楽しい時間を過ごしました。

パーティー終了後にはホテルの部屋へ帰ってから、自然温泉が湧く大風呂と露天風呂も楽しんでコテージ風のホテルで休み、十分な休養が取れた翌日は多彩な料理を用意したバイキングの朝食をお腹一杯食べて帰途に就きました。前日の昼食を名阪国道のPAで全員がカツ丼を食べたのですが、醤油が効きすぎて実にからい味付けが悪い印象でしたが、夜のパーティー料理、翌日の朝食の素晴らしさで帳消し以上の満足感で楽しい二日間を過ごしました。

小生の車に5人乗りで往復しましたので、後ろの席の3人(青戸様、井上翠様、藤井春美)には窮屈な詰め込みになりましたが、次回には大きな車のレンタカーを借りて利用することも一案かもしれません。

3月28日(火)の午後7時からは神戸新聞松方ホールにて藤岡幸夫指揮、関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が予定されています。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェンの英雄が演奏されます。

≪会長のひとり言≫

事務局の糸海さんが急な病で入院されたけど快方に向かって退院一週間ほど静養のあとまた出て来てくれることになった由。何より 何より 良かった 良かった!
皆さん、身体には気をつけましょね。お互いに!

2006年2月号掲載

≪家を継ぐこと、血統を継ぐこと≫

高田 育明(昭51医)

最近では「家を継ぐ・血統を継ぐ」などというと大変古風なことでのようですが、ふと生物学的に染色体の観点から想いを巡らしてみました。

ヒトの染色体は、常染色体(22対44本)と性染色体(X,Y)に分類されま
す。XYが男性、XXが女性です。

X1Y1の男性とX2X3の女性が結婚すると、子供は、X2Y1、X3Y1の男性とX1X2、X1X3の女性が生まれます。
同様に系統図を描くと理解が簡単ですが、X2Y1の男の子がX4X5の女性と結婚すると、その子供は、X4Y1、X5Y1の男性とX4X2、X5X2の女性が生まれます。

このようにY染色体があると男性、無いと女性と外見から染色体の遺伝形式が判断でき、男性にはその父親のY染色体が次々受け継がれることになります。減数分裂の段階で交叉により染色体の部分交換がおこることもあります。

女性のX染色体の遺伝形式は、X1X2の女の子とX6Y2の男性と結婚するとX1X6、X2X6の女性とX1Y2、X2Y2の男性が生まれます。

このように考えていくと、個別のX染色体(常染色体も同様)がどのように子供に伝わっていくのか、外見上判断が出来ず、また祖先のX染色体が受け継がれる確率が世代を重ねるごとに低くなっていくことが分かります。

昔の人は染色体の知識を持ち合わせていませんでしたが、経験的に男系で血統を継ぐことを選択していたと考えられます。

なお、このことは女性と男性の生物学的特性で、男女に優劣が無いことは明らかです。男性はどんなに頑張っても子供は産めません。 

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

まいど、お騒がせします。

2月2日発売の『ヤングジャンプ』に、僕が原作の漫画が掲載されています。いままで本になったものでなく、書下ろしです。

『anim.』巻頭カラー49ページです。
描いているのは八坂考訓さん。『キマイラ』を描いた漫画家さんです。すごく、才能がある方です。原作より、面白い。

東京に巨大地震が……しかも、ただの地震ではなかった。東京は……。ぜひ、お読みください。

でも、「アニマート」ってどういう意味だろう。
聞いておけばよかった。たぶん、音楽用語だと思うけど……。
3月に、新書が出ます。またお知らせします。

2006年新年号掲載

≪神戸全日本女子ハーフマラソンに参加して≫

宍戸 洋(昭和58法)

11月27日(日)神戸空港開港記念・神戸全日本女子ハーフマラソン大会が開催されました。昨年は、女子のみの参加で、震災10周年にちなんだHAT神戸から長田にかけてのコースを颯爽と走り抜けていくヌデレバ選手らを沿道から指をくわえて応援していたのですが、今年は、神戸空港まで走るというコースで男子の部が創設されたので、是非自分も選手として走ってみようと申し込みをしました。

当日は、澄んだ青空が上空に広がり、ひんやりとした空気の中、樹々が色づく絶好の秋日和。9時にスタート会場の磯上公園に行き、受付を済ませ、ゼッケン順に整列し、そのまま隊列を組んでスタート地点である東遊園地前まで移動します。10時20分、1000人ほどのランナーが市長の号砲の下、完全に交通遮断されたフラワーロードを山側に向けて一斉にスタートしました。

市役所北側を左折し、大丸前→元町駅→神戸中央郵便局前と昔ながらの落ち着いた市街地をコースに取ります。

普段は交通の激しい広い道路を通行止めにして、要所要所に配置された警察官や沿道の多くの人々に見守られながら、2km、3kmと快調に進んでいきます。中郵からコースを東にとり、和田興産本社前やルミナリエの飾りの下を通り、日銀前から海岸通に出て、若々しい街並みと紅葉した並木が美しい新都心HAT神戸まで進みます。ここで折り返し、ポートアイランドに向かう神戸大橋を渡ります。

橋の上に10km地点があり、上り坂で若干ペースダウンするものの、下りでは加速してポーアイに上陸。左折、右折し、広いまっすぐな道を南下していくと、右手にガッチャンという遊技機の音がけたたましいポートピアランド、前方に神戸空港へのスカイブリッジの坂が大きく盛り上がって見えてくる。

高さ20メートルほどのブリッジを登って下り、空港島に上陸、しばらく行くと折り返し、また橋を渡り返します。きついアップダウンですが、空港見学ウォークの人の"ガンバレー"に励まされながら、どんどん前のランナーを追い抜いていきます。

橋の上からはキラキラと輝く海が印象的でした。ポーアイに再上陸後、一路、市民広場前まで最後の力を振り絞り、両サイドの人垣に迎えられゴールイン。神戸高生の補助員が〔KOBE〕と印字された大きなスポーツタオルをかけてくれました。

順位は64位、タイムは1時間27分04秒と、目標の1時間30分を上回ることができました。爽やかな汗を流しながら、神戸の街の様々な表情を満喫できた素晴らしい一日でした。

会員の中で、ご一緒にランしていただける方おられませんか?

≪チェンマイと私と5人のK氏≫

竹谷 康弘(昭57商・62商博)

数年前の暮れのこと、海外旅行の達人K氏(当時70才台前半)からタイ王国北部旅行の写真を一枚ずつ解説付きで見せて頂いた。

先進国大好きアジアに辛口のK氏が、「いい所だよ、心が洗われる気がするよ」とベタ誉め。K氏はK-2氏(当時60才台後半)を中心にグループでよく洋行されており、その方々にはよく誘われていた。しかし旅行のお話をその都度お聞きしても私の心は反応せず、ご一緒させて頂くことはなかったのだ。数日後、その話をK-3氏(当時40歳代半ば)にしてみると、「おまえにピッタリだよ!北部は人の気質もいいし、気候も乾季ならね。食事は中華かホテルだな、タケなら。

何をするにも物価が安いのが特にタケ向きだな。タイ式マッサージもいいぞ。週末の弾丸ツアーも成立する。俺はこの前行ってきた処だから、今度声かけるよ」と、話がK氏の説明と一致。こうなると無性に行きたくなる。

翌新年会の席でK-2氏に話をお聞きすると、「一緒に行こう」と企画して頂いたが連休の飛行機が取れずに中止。諦めの早い私は「縁がないのだな」と。しかしK-2氏は翌月にも企画、タイの地を踏んだ。神戸出身で現地ロンステ中のK-4子さん(当時50歳代半ば)と現地のホテルウーマンK-5さん(当時20歳代半ば)に貸切ワンボックスカーでこちらの要望どおり一日中あちこちを案内して頂いたが、彼女らへのお礼を入れても総額は旅行社のツアーより安く上がった。

当初はお断りした"象乗り"、K-2氏に「まあ、お乗り」と再度勧められ、山間部を2時間乗り込んだ。聞いてみると日本の動物園帰りの象、その背中が人生観を変えた。茶色い水の川面を3人乗りのボートでまさしくぶっ飛ばすと、テレビドラマのように時間が止まって感じられた。仏教とはいえ日本とは全く異なる寺院を回り、俄か仏教徒よろしく金、緑、白と様々な色の仏像を拝んだ。

着いた日がお釈迦様の日であったことが作用したのか、虜になった。その後も何度か足を運び、レパートリーを増やし、ついには女房子供を案内した。行き先はチェンマイを中心としたタイ北部、ラオスにミャンマー、あの空気を吸い、雰囲気を味わうと心が落ち着く。多くの笑顔に出会うと自然と笑顔になる。

楽しい時は早く過ぎ去るものだが、タイ北部は楽しいのに時計がゆっくりと進む不思議さを持っている。

〔余談〕芸能人の島田紳介氏が選挙応援で「誰も老後を○○やチェンマイで過ごしたくないんですよ、日本で過ごしたいんですよ」と涙ながらに訴えていたが、私の出会った方々は皆さん存分に楽しんでおられるようにお見受けしましたし、一言「知らんのになぁ」と。

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

2005年12月に『TSUNAMI』(集英社)が出ました。

主人公は違いますが、基本的に『M8』の続編です。

『M8』を書くときに意識を離れなかったのは、阪神・淡路大震災の犠牲者の家族、被災した人たちが読んで不快にならないこと。これは、僕にとっては最も大事なことであった。東京に大地震が起これば、こんなものではない。高層ビルは倒れる。死者の数が一桁違う。考え方が甘すぎる。

様々な意見をいただいた。しかし、『M8』で使っている数字、被害状況にはすべて裏付けがある。政府の中央防災会議の発表をベースとして、地震の種類を考慮して、被害想定を行った。根拠のない、想像だけのものは書きたくなかったのだ。だが、書きながら実際に東京をM8クラスの地震が襲えばこんなものではないだろうという思いは常にあった。

『TSUNAMI』においては、そうしたことをすべて取り払った。といっても、可能な限りの資料は調べた。都市型災害には多くの複合的要素が混ざり合い、わずかなことでもとんでもない災害に発展することもある。それらは限りなく広がり、書き尽くすことなど到底できない。ここに書かれている状況は、起こりうる事態のほんの一部に違いない。

そうであっても、いたずらに恐怖心を煽るだけと言う意見もあるとは思うが、これが日本列島が置かれている現実である。