2004年会員便り

2017年へ
2016年へ
2015年へ
2014年へ
2013年へ
2012年へ
2011年へ
2010年へ
2009年へ
2008年へ
2007年へ
2006年へ
2005年へ
2003年へ
2002年へ




2004年12月号掲載

≪新札一万円に福澤先生の肖像画登場!≫

塚本 明久(平9総合)

20年ぶりにデザインを一新した新紙幣が1日、発行された。福澤諭吉先生が引き続き新一万札の顔となった。

新札発行にあたり、肖像画のゆかりある慶應義塾に無償で記番号「A000002A」のいわゆる2号券、「A000001B」券が福澤先生の故郷である大分県中津市に寄贈された。ちなみに新札1号券は日本銀行貨幣博物館に収容され、記番号の若い紙幣は肖像画の人物や裏面の図柄にゆかりある団体や場所に寄贈される。3号券が裏面の鳳凰像がある京都・平等院に寄贈された。

今回の新札発行は、偽造防止が基本的な目的だが、長期政権下で発行されるケースが目立っており、「新紙幣を出せるのは強い政権の証し」という見方もできそうだ。
 財務省によると、戦後の本格的な新紙幣発行は今回を含めて5回。初回は幣原内閣だが、2回目は吉田内閣、4種類の新紙幣が順次発行された3回目は岸、池田、佐藤の3内閣にまたがり、4回目は中曽根内閣だった。

特徴的なのは戦後の長期政権上位6位までが顔をそろえたことだ。各政権にとって新紙幣にかける思いは強い。2000円札の発行を決めた小渕内閣でも「沖縄サミットに向け、沖縄を思う熱意の表れだった」とされている。小泉純一郎首相は11月1日新紙幣効果について「景気が堅調に回復すればいいなと思っている」と発表している。

今回の福澤先生新札続投の真相は諸説報道されているが、全く新しい肖像画を描く手間を省き、新札の発行を急ぐのが主旨だとされる。

1万円札は64億7000万枚(今年9月末)と、お札の流通枚数全体の52%を占め、印刷に最も時間がかかる。実際に1万円は、3種類の新札で最も早い2003年7月に印刷を開始した。今回の新札は、発表から発行までの期間が2年3か月で、3種類とも肖像を一新した前回の3年4か月を1年以上短縮した。

急ぐ背景には、偽札の増加に歯止めがかからない事情に加え、偽造をもくろむ人に、なるべく事前の準備期間を与えない狙いもあるという。新札には見る角度によって模様が変わる「ホログラム」など、偽札を見抜くための極秘の「特徴」も仕込まれている。この日本のハイテク技術の優秀さを福澤先生がお知りになれば、きっと驚かれるだろう。

≪会長のひとり言≫

五代 友和(昭37商)

◎作家の深田祐介さんが「台湾」の人々に会って感じたことは、「明治時代の日本人が日常的に持っていた倫理的緊張感や質朴さ」が感じられるとのこと。今の日本人、いったいどうなってるのかな?先々が本当に思いやられますね。
我々「大人」がしっかりしなくちゃ。

◎神戸の街ってどんな街?
それは「オシャレ」な街。
日本中見回しても「オシャレ」な街は神戸だけ!
オシャレな東京、オシャレな札幌、オシャレな京都と言っても似合いませんよね。
「オシャレな神戸」を大切に守りたいものですね。

2004年11月号掲載

≪忠臣蔵・赤穂バスツアーに参加して≫

井上 祥(昭56法)

秋の旅行シーズンたけなわの10月30日に、五代会長、徳丸幹事長はじめご家族の方も含め28名の方々と初めての企画、「忠臣蔵のふるさと赤穂ツアー」に参加してまいりました。
当日はイーゼル会のスケッチ旅行も兼ねており、参加すれば必ず晴れるメンバーの神通力?も今回は叶わず、雨天の中の出発となりました。

往路の車中では差し入れのビールや昔懐かしのお菓子に明石を過ぎた頃には皆さんのお顔も明石のたこも負けるくらい真っ赤になり、バスガイドの面代(めんだい)嬢とのやりとりに大笑いで大変盛り上がり、あっという間に赤穂に到着いたしました。

雨で播磨灘にぼんやり浮かぶ島影を車中から眺めながら、浅野匠頭、大石内蔵助以下四十七義士を合祀して創建された大石神社を饅頭屋さんのオモシロオカシイ案内人のガイドで参拝し、赤穂城址を見学し、はるか江戸時代の忠臣蔵のロマンに思いをはせました。

全員で記念撮影をした後は、イーゼル会の皆さんは、雨天のため当初の予定とはスケッチ場所を変更し、広間にて淡路屋さんの三段重ねお弁当にビールにとこのまま出発まで宴会が続くのかと思われるくらいでした。しかし、さすが、イーゼル会の方は昼食が終了すると同時に、瀬戸内海の眺望や秋の木々を真剣に梅地先生の指導で、写生されていました。
一方、青戸先輩はじめ9名は、赤穂御崎先端の赤穂温泉銀波荘にて瀬戸内の味覚を堪能し、「若返りの湯」や「よみがえりの湯」として知られる温泉で瀬戸内の島々を見ながらご入浴にお買い物に楽しまれていらっしゃいました。

再び全員合流し、復路の貸切バスの車中では、ビンゴゲームやカラオケに時間が経過するのがこんなにも早いのかという盛り上がりでした。 

雨降って地固まるという諺の通り、バスの車中では会員の親睦がさらに深まるのを感じました。
10時間近く皆さんと時間を共有し、私も神戸に住んで丸1年、なんだか旅行中は先輩方が親であり兄姉の様に思えたのは錯覚でしょうか?

≪10月29日の役員会の協議・報告事項≫

幹事長 徳丸 公義(昭54商)

10月29日開催の役員会にて以下の事項を報告及び協議しましたのでお知らせします。

1. 月次例会
これまでの月次例会の出席者数の状況報告と今後も同様にクラブルームを活用する方針を継続することを確認した。なお、講師はこれまでどおり当倶楽部の方を中心に塾員の方にお願いする予定。

2. 来年の関西合同三田会の開催
兵庫県下の慶応倶楽部・三田会の役員との2回の打ち合わせ及び関西合同三田会幹事会で検討の結果、2005年の関西合同三田会を但馬三田会主幹で城之崎温泉の西村屋において開催することとなった。開催日は11月12日(土)であり、当日は当倶楽部からの業務の応援を予定している。出席者は150人から200人を見込んでいる。遠方のため別途料金にて宿泊の手配も行う予定。なお、神戸からバスにて参加会員の足を確保する予定である。

3.年末家族例会
年末家族例会を神戸ポートピアホテルの菊水の間にて12月18日(土)の5時半から開催する予定。なお、アトラクションは、今後もう少し検討することとした。会場がやや手狭なため立食形式とする。

4. この秋の関西合同三田会
  今年の関西合同三田会は、京都の「みやこめっせ」で11月14日(日)に開催されるが、神戸からの参加予定者が現在26名のため、手分けして参加者を勧誘することとした。

≪会長のひとり言≫

五代 友和(昭37商)

長者番付を見るたびにタメ息が出るけど、数百人の長者にインタビュー、アンケートをとった人がいる。いろんな要素があるけどチェックポイントは・・・・

(1) 自分の大好きなことを仕事に選びましたか?
(2) 誠実で周りの人に信頼されていますか?
(3) 自分は「運がいい」、「ツイてる」と思っていますか?
(4) どんな危機も乗り越えられる自信がありますか?
(5) 30人以上の人に応援されていると感じますか?
(6) 人生の師と呼べる人がいますか?
(7) パートナー(配偶者)はあなたを心から応援していますか?
(8) 子供には学校の勉強よりいろいろな経験をさせた方がいいと思いますか?
(9) 10年後のことを考えながら毎日を送っていますか?
(10) どんなに大きなことでも最後は自分が決断できますか?
ということらしい。皆さんはいかがですか?

2004年10月号掲載

≪最近感じたこと≫

坊垣 嘉寿也(昭56経)

いささか旧聞に属しますが9月1日にロシアで新学年の始まりを狙った人質テロ事件が起きました。又中国でも北朝鮮からの亡命者が日本人学校のフェンスを破って進入しました。幸い後者は小学生たちが人質にならずに済みましたが、ロシアの凄惨な結末は目を覆うばかりです。自分たちの主張に一理あるとしてもそれを実現するために弱者を利用するというのは考えてもらわなければいけません。

最近の世界情勢・主流の考え方・傲慢な権力の行使に納得のいかないことがあり、反対することは必要な事かも知れませんが、それだからこそ手段にはもっと配慮しなければならないと思います。

子供たちの話に限って言えば、日本では児童虐待など大儀も一理も何もなくただ自分たちの嗜虐性向・不満不安の捌け口の被害者になっているだけの事件が多発しています。個人的な欲求などたとえ叶ったとしても百年も生きられるわけではありません。大人としてもっと上手に諦観できるようにならねばならないと思います。

神様・仏様の世界はあまりよく理解できていませんが、人間と人間の思考を制約している時間の非可逆性、エントロピー拡大の法則が超越できる物理理論が見つかれば宗教紛争は解決できるのではないかと思っています。それこそ知性の勝利ですね。

現在柄にもなく娘の通う小学校のPTA役員をしていて、慶應社中の皆様に接するのとは違う対人関係の勉強中です。取り留めのない話で恐縮でした。

≪慶早ゴルフ対抗戦レポート≫

秋の早慶ゴルフコンペが9月8日(水)神戸ゴルフ倶楽部で行なわれました。
今回は常勝の慶應軍団に早稲田が強力布陣で挑んできました。人数も早稲田14人、慶應8人と劣勢を強いられ、慶應も姫路慶應倶楽部からの助っ人の力を借りて対抗しましたが、上位7人の合計ネットスコアーで28.8ストロークの大差をつけら
れ負けてしまいました。五代会長からは「早稲田さん、10年に一度の優勝おめでとう」との挨拶があり、口で対抗しましたが、あとは早稲田の言いたい放題。慶應はただひたすら、おいしい松茸のすき焼きを食べるのみ。久々に「都の西北」を歌い、春には必ず雪辱を晴らすと誓い、おひらきとなりました。(記事:森本泰暢)

参加者:五代友和 伊藤協治 芳川玲子 
多木良晴 吉元 弘 山上高弘 
廣川 守(敬称略) 森本泰暢

≪会長のひとり言≫

★電車に座って前の席を見てたら、10人の内8人がケータイを開いて指をコチョコチョ! これ便利な世の中になったんやろか?会社でも隣の席に座ってる奴にメールで連絡、会話のない職場って気味悪いと思うけどな〜? まさか夫婦がメールで会話なしてなことはないと思うけど・・・

★遊ぶということはええことやと思うな〜!
別の言い方したら趣味を持たん人はストレスたまるやろな〜?生きていかれへんのと違うやろか?

アンタ趣味は何?って聞かれて、「私の趣味は○○です。」とすぐに答えの出て来た人は不幸やし、成長もせえへんでぇ〜・・・??

2004年9月号掲載

『水について』(其の二)

上島 康男(昭33法)

水は雨や雪が岩石や地下の岩盤などに浸透して伝わって流れていく間に岩などに含まれている鉱物を溶かし込む。そして長い時間をかけて涌き水として噴き出してくる。水は地中の鉱物が溶けて含まれるミネラル(カルシウムやマグシウム)によって軟水と硬水に分けられる。

水の硬度とは、水に含まれるカルシウムイオンとマグネシウムイオンの量を炭酸カルシウムに換算した数値で、日本では軟水は100ppm以下、硬水は200ppm以上とされているが、各国でそれぞれ独自の数値を定めている。

日本の地下水は地下に留まっている期間が短く地中のミネラル分の影響が少ないため軟水が多い。逆にヨーロッパなどの大陸の水は石灰岩が多い上に地下の滞留期間が長いためにミネラルが溶けすぎてしまい硬水が多い。ヨーロッパでは硬度200〜300以上という水もあるほどで、軟水に慣れている日本人が飲むとお腹を壊して下痢をすることがある。これはアフリカや東南アジア他の後進国のように水が汚いからではなく水の硬度の問題。従って水質の悪い国や硬水の国ではボトル(但し硬度100以下)の水を飲むことにつきる。ただし、ヨーロッパでもスイスやイギリスの水はおおむね大丈夫だ。

この水の違いは料理にも反映されている。ヨーロッパのように料理にはあまり向いていない硬水の国の、例えばフランス料理では水を使うよりも、蒸すとか、油で炒めたり、牛乳やワインを加えて煮たりすることが多く、軟水の国の、例えば日本料理では古くから水を使った煮物・汁物・茹で物といった料理が多い。

又ヨーロッパでは硬水使用でもまぁまぁ飲める濃いコーヒーやカフェ・オレ等が飲まれているが、軟水のイギリスでは紅茶の方が根強い人気を誇っている。紅茶は葉に含まれたタンニンをお湯に溶かして香りを楽しむ飲み物だから軟水がよい。フランス・ドイツなどの硬水で入れると紅茶の微妙な美味しさが味わえない。コーヒーも軟水の方が断然美味しいコーヒーが抽出できる。最近紅茶一辺倒だった英国でコーヒーを好む人が増え、又緑茶、烏龍茶の中国でもGDPが一人当り1000ドルを超えたので今後コーヒーが急速に普及するものと期待している。

日本の水は軟水が多いが、我が社では水道水を使用するお店には必ず浄水器の設置を条件としている。水の衛生上、水道水には消毒用の塩素の投入量が多く、カルキ抜きをしないとコーヒー、紅茶の抽出には適さないからだ。

最近日本人は飲料類は緑茶まで缶や紙パックやボトル詰の加工品を飲んでいる。水も天然水のボトル詰めの水を買う人も多くなった。日本産出の水は殆ど軟水と見てよいが、輸入されている水は必ず硬度表示を見て100以下のものを購入されることを奨める。

日本で美味しい天然水が飲めないのは残念の限りだ。しかし水があるだけでも幸だ。干ばつで苦しむ多くの国があることを思うと雨に恵まれていることを感謝しなければならない。
神戸の水はと云うと、戦前は西宮の宮水でも知られているように神戸の六甲山系の地下水は豊富でミネラルも多く、良質で寄港する外国船も神戸で飲料用の水を積み込んだ。赤道近くを航行しても水が腐らないと重宝された。しかるに人口も増加、使用量も膨大となり、現在は神戸では常に水不足で悩まされ、呑吐ダムなど作っているが間に合わない。水はタダではない。大切にしよう。

『東京・雑感』

松岡 美佳(昭60文)

8月上旬、運良く土日連続休暇がとれ、5年ぶりに上京した。「関東ミニ文校」合宿に参加するためだ。「大阪文学学校」の現役生、OB、OGが対象で、19歳から74歳までの老若男女、経歴も多様な32名が全国から集まった。

会場は、JR上野駅北、上野動物園すぐそばのホテルで、敷地内に「森?外居住の跡」があり、庭園の一角に「鴎外『舞姫』の碑」が建つ。鴎外はこの地で「舞姫」「うたかたの記」等を発表した。

到着後、ジャンルごとに10名前後のグループに分かれ、提出した各自の作品について合評会が始まった。鋭く、忌憚のない、だが適評の合い間に、次々と登場する古代から現代までの文人達やその作品、植物名の由来、ラッキョウの漬け方、S氏の文芸賞受賞の報告、メジャー文芸誌の最新刊に作品が掲載されたM氏の喜びの宣伝、はては「プレイボーイ」の定義まで・・・。

私達のグループ担当のH先生は、中でも圧倒的な存在感を放っていた。現役の作家で、某文芸協会理事、文学賞等の審査員も務めておられるが、引き付けられたのは肩書きではなく、その壮絶で奇天烈な人生、桁外れの博識とユーモアのセンス、眼力である。

夜の宴会は、「舞姫」が執筆された「舞姫の間」で、昼間の心地よい疲れを抱きながら、お酒を酌み交わした。時は明治23年にタイムワープしたまま、夜は静かに更けていった。

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

8月26日『M8(エムエイト)』が集英社より出ました。よろしくお願いします。

基本的には「愛」と「友情」の物語です。
「愛する人よ! かけがえのない街よ!
 マグニチュード8。2005年12月X日、東京大地震発生!
 10年前、神戸ですべてを失った者たちが今、立ち上がる!
 最新研究をもとに描かれる大地震シミュレーション巨編。」 (帯より)
 またまた宣伝させていただきました!

≪ちょっと一言≫

濱口 紳二郎(昭58法)

バラの栽培が趣味です。誰か同好の方がおられれば幸いです。

新人の自己PRでした!

≪ひとり言≫

五代 友和(昭37商)

『秋桜』と書くコスモス、可愛いい花やと思いませんか?コスモス畑と言われるくらいワーと咲いてるのもキレイやし、道端に2〜3本咲いてるのもいじらしいなぁ。季節の花が折々に咲く日本って、ほんまええ国やなあ!人の心も花みたいにしたいなあ!

2004年8月号掲載

『水について』(其の一)

上島 康男(昭33法)

静かな緑の木々の中で、せせらぎの音を聞くと心がなごむ。水に接していると、何んとも心地よい。多くの惑星の中で唯一地球には水が存在したから生物が発生した。水こそ生命の根源で、水がないと生きてはいけない。昔から人は水との闘いを続け、水に守られ生活してきた。太古から水のある所に人は住んだ。地球の表面積の70%は海だが、地球のどこにでも水があるかと云うとそうではない。

地球上には水の少ない砂漠地域がある。サハラ砂漠、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、カラハリ砂漠、ナミブ砂漠、アタカマ砂漠と枚挙にいとまがない。アメリカ大陸でも飛行機から見るとロスアンゼルスやラスベガスなどは延々と続いていた広大な砂漠の中に突然大都市が現れる。中国でもゴビ砂漠からの黄砂で悩まされ続けているし、アフリカのサハラ砂漠では、燃料の為に木が伐採され砂漠化がどんどん進行し続けている。

それに対して、日本は緯度から云うと同じゾーンにあるが、太平洋の暖流が南から黒潮となって北上し、日本列島の南側にそって廻流するので、太平洋上の水分を大量に含んだ気流が北上し、中国の大シンアンリン山脈にぶつかり、右へ大きく旋回して、日本列島の上を覆うように通過するので有難いことに豊富な雨を年中降らせる。最近干ばつの年もあるが、なべて水には恵まれている国の一つとなっている。従って日本では1年365日の約40%の150日前後どこかで雨が降っている。

意外に5月は雨の日が多く、雨の日々の中でたまにさわやかな一天雲のない青空の日があると、「五月晴れ」と称した。しかも中国では5月は悪月と呼ばれ疫病が発生し始める月でもあるので、菖蒲などで厄払いをしたが、その習慣は日本でも5月の節句の行事として定着している。私は10数年前から日本での雨の降り方が亜熱帯のような激しいスコールのような豪雨が多くなったと云ってきた。「春雨じゃ濡れて行こう」と粋がってもいられないようなドシャ降りの雨が多い。

6月は梅雨で、云う迄もなく確かにじめじめとしていて雨の日が多いが、最近はショボショボと降るのでなくザアッと降ってさっと上がることが多いような気がしてならない。又、台風も近年思いがけない時期に襲来する。気候は地球の温暖化によって確実に変化している。

こんなに水資源に恵まれている筈の日本の水は、現在汚染の為、水道の水は殆ど飲料に耐えず、ペットボトルの水を購入しなければならなくなった。日本人は水はタダと思って粗末にしているが、汚染が進んでいるし、樹木体系の変化からバランスが崩れ各地で水不足が起こっている。汚染や渇水などは全て人災であり本当に嘆かわしい状況になっている。

日本の本来豊富で良質であるべき水資源が、水を大切にすると云う意識の欠如から自らの手でこんな状況にしているのは残念の限りだ。今からでも遅くない。水を大切にすべきだ。

次稿では用途別でどんな硬度の水が適正かについて述べる。

『これからのホテルビジネス』

中内 仁(平1商)

2月中旬に1週間ほどアメリカ東海岸と中西部に行ってきました。目的はアメリカでも最先端の医療都市を見学することでした。

神戸市は国際観光都市やファッション都市を先駆的に宣言しましたが、現在は医療産業都市構想を新たな重要プロジェクトのひとつと位置付け、ポートアイランド内に着々と関連企業の誘致を図っています。ホテルビジネスもこれから先のことを考え、医療産業都市の中でホテルと病院をどのように関係付けなければならないのか、その構想を育むための貴重な時間となりました。

見学先はワシントンDCにある、医療関係の国家予算配分を決定するというNIH(国立衛生研究所)、癌治療で世界トップレベルといわれているボルチモアのジョンズホプキンス病院。さらには心臓病治療の分野で世界的に有名なオハイオ州のクリーブランド・クリニックも見学しましたが、そこでは病院とホテルがスカイウォークと言われる渡り廊下でつながっていました。このホテルの所有者はクリニックの財団で、経営をプロのオペレーターであるインターコンチネンタルに委託しています。

資本主義であると同時に階級社会のアメリカでは、医療費が高くても最高の医療水準を求める患者のための施設が集積されていました。ホスピタルとホテルは同根の言葉です。短いアメリカ滞在ではありましたがホテルビジネスの目指すべき一端が垣間見えた旅でした。

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

7月21日『トルーマン・レター』(集英社文庫)が出ました。昔出したものの文庫化です。
僕の好きな一冊です。よろしくお願いします。

「日本の片隅で、反核を囁く。−愛を取り戻すためにー」これは、ポップです。
本の中に、8月刊のチラシが入っています。
これも、見てください。

2004年7月号掲載

『愛犬と泊まるホテル・ペロはまなこ』

三上 元(昭43商)

今の世の中、ペットブームとかですね。
少子化が進み、女性が一生に1.29人しか生まなくなってしまいました。そして室内犬が増えています。実は我家にも一匹、室内で人間の様にしている愛犬サブがいます。そんなブームがまだまだ続くと見て、2年前の春に、私のふるさと浜名湖の西側湖岸に愛犬と泊まる"ホテル・ペロはまなこ"を開業したのでした。

ペンションが愛犬同伴可としてあちこちに存在しはじめていますが、このプチホテルは、全室にウォシュレット、洗い場つきのバス、高い天井にウッディーな内装です。床はワンちゃんがすべらない様にクッションフロアーにしております。

初年度は赤字でしたが、減価償却費以内の赤字でした。2年目は償却後に少々の黒字となりホッとしています。まだ稼働率は40%程なので平日はガラガラですが、正月、ゴールデンウィーク、夏休み、そして土曜日は満室近くになります。

神戸から車で三ヶ日インターまで4時間、そこから20〜30分でホテルに着きます。目の前は海で遠く東には富士山が見え、夏の土日にはあちこちで花火が上がります。ドッグランとドッグプールもあります。 

この4月から10月11日まで「浜名湖花博」が開催されています。この機会にぜひ会員の皆さまのお越しを心よりお待ちしています。1泊2食でお一人様9,000円よりと並みの価格に設定しております。なお割引券を特別に用意しますので申し出てください。誌面をお借りして宣伝させていただきました。  (ペロとはスペイン語で犬のことです。)
URL:http://www.perro-h.com/
E-mail:webmaster@perro-h.com

『スコッチウイスキーをご存知ですか?』

坂本 憲一郎(平6環)

「スコッチウイスキー」私がこの言葉に取り憑かれてもう15年程になるでしょうか。家の棚や押入れは数百本のウイスキー達に占領され、私自身スコットランドに何度も足を運び、家族や友人は皆呆れ顔です。ワインを良くご存知の方は倶楽部にも多いかと思いますが、ウイスキーは愛飲者も多く知名度も高い割に意外とご存知の方が少ないのが現実ではないでしょうか。

スコッチはいわゆる「地酒」。「バランタイン」「ジョニーウォーカー」は誰でも知っている超有名銘柄ですが、これらはブレンドウイスキーと呼ばれ、雑穀から工業的に大量生産される癖の無いウイスキーと、大麦麦芽からほぼ手作りで生産される個性豊かなモルトウイスキー数種類を一定比率にて混合し、飲み易くしたウイスキーで世界的にも圧倒的なシェアを誇っています。ここで混ぜられるモルトウイスキーがまさに地酒、百数十の蒸留所が味を競い合い、同じスコッチとは思えないほど多種多様な味となり、これがスコッチの最大の魅力となっているのです。

スコットランド西端の小さな島で200年も前から作られ、強烈な個性がありチャールズ皇太子も愛飲している「ラフロイグ」、北部で生産され、その味の華麗さからスコッチのロールスロイスと賞賛される「マッカラン」等は神戸のバーであれば、まずどこでも飲む事が出来ます。

「スコッチの水割り」ではなく、「マッカランの水割り」と一度注文してみてください。保証は致しませんが、それだけで同席しているパートナーやお店の方から一目置かれる存在になるかも?しれません。

2004年6月号掲載

『慶應義塾の先人:電力王−福沢桃介−』

塚本 明久(平9総)

今年のGWは7連休となり、久しぶりに休暇をとれることになった。そこで、名古屋で友人と落ち合い、慶應義塾出身で明治・大正に電力王として活躍した福沢桃介ゆかりの木曽方面まで足を伸ばした。

福沢桃介は、明治元年(1868年)6月25日埼玉県吉見町で生まれ、慶應義塾に入塾したのが縁で、天性の明敏かつ努力家の桃介は福澤諭吉先生に見込まれ、娘・ふさの養子となり、19歳で実業界に夢を抱いてアメリカに留学しています。

帰国後、福澤諭吉先生のところへ娘婿入り、北海道炭鉱鉄道に入り、6年間サラリーマン生活。ところが肺を侵されて病床に伏すことになりました。

明治40年代から名古屋を中心とする実業界で活躍し、幾多の事業を手掛けています。電気事業に関係するようになったのは明治41年からで、木曽川水力発電の開発に特に情熱を注ぎました。

明治43年、桃介は名古屋電灯会社(現在の中部電力)の常務取締役に就任し、発電規模の大きい水力発電の建設に適した場所を探していました。そのなかで木曽川は桃介にとって、無尽蔵の電力の宝庫でした。

大正8年に賤母発電所を築き、大正12年の読書発電所竢工の頃が彼の絶頂期だと言えます。電力王とも呼ばれ、日本近代産業の振興に大きな足跡を残し、昭和13年(1938年)2月15日に69才の生涯を閉じました。

桃介は、木曽川水系に多くの発電所を建設しましたが、その現地の宿舎として、風光明媚な三留野の地に別荘をもうけ現場の指導にあたりました。その宿舎で電力発電のために長期逗留しました。この宿舎は、現在福沢桃介記念館として保存されています。記念館内には、福沢諭吉先生の「独立自尊」に劣らない「自力更生」という福沢桃介自筆の扁額が掲げられています。

また福沢桃介記念館の側に「桃介橋(ももすけばし)」がある。大正11年に完成。木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書(よみかき)発電所(大正12年完成)建設の資材運搬路として架けたものである。橋の特長としては全長247m、幅2.7mで、この付近では最大川幅のところにあり、美しく雄大な景観を誇っています。

この橋は、木製補剛桁を持った吊橋としては、日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊橋としては当時(大正時代)我が国の土木技術の粋を集めためずらしい4径間の吊橋となっています。3基の主塔はデザインも大変すぐれており、また、それぞれの主塔から斜吊索が張られ19世紀末のアメリカの吊り橋によく似ているといわれています。

大正の架橋から地域の交通に大いに役立っていましたが、昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていました。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元され、現在は美しい吊り橋として威容を誇っています。

今回の木曽の山中への旅、「自然ののどかさ」と同時に慶應義塾が輩出した電力王・福沢桃介の人間像を知ることできたことがなにより嬉しいものでした。

『トーキョー・リングを観て』(その1)

広瀬 巌(昭42法)

ワーグナーが生涯をかけて作り上げた音楽史上最大の大作「楽劇・ニーベルンゲンの指輪」全4部作上演に要する時間は、約16時間に及ぶ。
この大作を2001年から2004年にかけて上演するという大プロジェクトを、東京新国立劇場が行なった。

ワーグナー教の私としては、全ての日程を調整し、4部作の各最終日を観た。
一つの指輪がもたらす、神々と人間の戦いと愛の物語には、現代の世界を予見している箇所が多々ある。演出の英国人キース・ウォーナーはこの大作をパズルをはめこむという手法で最後の神々の滅亡に結実させたが、一部私には違和感を感じさせる箇所も散見したものの、概ね同感できるものがあった。

第3部"神々の黄昏"の英雄ジークフリートのらしからぬ弱々しい行動は、彼の恋人であり神々の戦さ乙女であるブリュンヒルデとの対称を際立たせることにより、人間は所詮神にはなれない事を表現している。服装は全て現代風であり、ワーグナーの音楽がそれにマッチしていた事も、どのような演出をしようが彼の音楽の底深さを感じた。

今話題の"ロード・オブ・ザ・リング"は、このワーグナーの作品に感化されて、作者トールキンが書き上げたと言われている。

次回では、個々の場面で印象に残った箇所を現代との比較で、私なりに記してみようと考えている。(次号に続く)

2004年5月号掲載

≪中国からの便り≫

井垣 誠一郎(昭58法)

さて、私事でありますが、中国に転勤いたしました。
「無錫松下電池有限公司」の名称で、上海から蘇州を通って車で2時間少しの無錫(むしゃく)という所にある製造会社です。他社に遅れながらも携帯、パソコン用のリチウムイオン二次電池事業を立ち上げることになり、その責任者で現地に赴任しました。

事業の立上げがこれほど大変かと改めて認識させられましたが、決してこれからの事業の先行きもバラ色ではなく、大変重い気持ちの毎日です。

米国勤務10年の私としましては、転勤を言い渡された後もなかなか中国モードに切り替えるのに苦労して来ましたが、今や製造業にとって中国オペレーションを無視することもできませんし頑張るしかないのです。

正式赴任は3月で、それまでは出張対応で行ったり来たりしましたが、正式にVisaも取得し着任しました。単身赴任でまさに仕事オンリーの生活ですが、仕事の後、かなりのレベルの日本飯が食べれること(やはり中国人はコピーがうまい!)、また中華も各地域の料理や火鍋やら結構食べれますので、アメリカの田舎よりはいいのではないかと自分を慰めてます。また治安がいいのも安心です。中国も南部の方はボロボロらしいですが・・・。

課題はやはり中国語でしょうね。先日、かなり疲労感があったので盲人マッサージに行った後、ホテルまで一人で街中を歩きながら、言葉がわかれば中国は奥が深そうやなぁなどと考えていました。

日本出張は結構ありますので、そのチャンスにまた皆様とお会いできお話しできればこの上なく幸せと期待しております。またおもしろい話等がありましたら報告します。

取り急ぎ中国赴任のご連絡ご挨拶まで。

≪六甲山初登山≫

伊藤 協治(昭38工)

久し振りに2月の例会に出席しまして木村俊光氏のバリトンの歌を聞いて、うっとりとした気分になりました。パーティーの席で藤田夫妻と一緒になり、奥さんに「私は最近暇になりゴルフと散歩で1日を過しています」と云いましたら、奥さんは「山に登られたらどうですか」と云われ、まさか64才で体力も衰えて登れるだろうかと思いました。

しかしゴルフも散歩も少しあきてきた所で、山にでも登ってみようかと思いたちました。翌日本屋に行き「六甲ハイキング」と六甲山の地図を買い、道順と大体の距離と時間を研究しました。本では阪急芦屋川から六甲山頂まで3時間10分となっており、これなら大丈夫と思い翌日登る決心しました。

確か2月21日の天気のいい日で冬でも比較的暖かい日で、軽いリュックサックを背負い散歩用の靴を履き、朝8時に家を出て高座の滝へ向い50分で着きました。そこで滝を見ながら休憩をして、ロックガーディンを経由して風吹岩に向いました。

所がこのロックガーディンは、名前の通り岩ばかりで登るのにくたびれてしまいました。しかし整備がよく、足場はしっかり出来ていて、一歩一歩ゆっくり階段を登るように登って行きました。途中鎖場やハシゴもあり私のような初心者でも何とか登れました。高座の滝から50分程登って風吹岩に着きました。風吹岩は標高437mで眺めがよく芦屋、西宮、大阪湾がよく見えました。そこに三毛猫が2匹いたのにびっくり、よく人に慣れているらしく、おにぎりをやるとよく食べました。

風吹岩から芦屋カントリー経由で雨ヶ峠へ向いましたが途中道標識はしっかりしていて道に迷うこともありませんでした。またこの山道は非常に気持ちよく自然の中を歩いて行く感じがしました。約1時間で雨ヶ峠に着き、そこで休憩して本庄橋跡に20分程で着き、そこでまた休憩して七曲りの道で六甲最高峰に向い本庄橋から約1時間位で六甲最高峰の三角点に着きました。

その時の感激と満足感は今でも忘れません。何か大きな仕事をやってのけたという気分です。後は魚屋道を落葉をふみながら緩やかな下りを、ゆっくり有馬へ向い、1時間20分程して有馬につきそこからバスに乗って家に帰った次第です。

約6時間少々かかりましたが約13kmの道をよく歩いたものだと思っています。私はこの日以来週に一度は同じ道で六甲山から有馬へ行っています。健康にもいいし、何よりも頭がカラッポになれて気分がいいです。皆さんも暇があったら是非登られたらいいと思います。私は当分この日帰り登山を楽しみます。

≪ちょっと一言≫

市居 嘉雄(昭29経)

著書『私のふるさと故事来歴文集』を発刊しました。

昨年のBRB7月号〜10月号の「社中の心」に連載の「神戸の鉄道史をたどれば」も集録しています。

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

『都庁爆破』(宝島文庫)が、文庫化されました。

過激な題名ですが、家族の愛情、友との友情を扱った、心温まる(???)お話です。現在の社会情勢にもつながるかも。僕も内容を忘れてて、少し読み直してみて、なるほどなあなどと・・・。

2004年4月号掲載

≪雑感2題≫

上島 康男(昭33法)

茨木CCから「古稀を迎えて」と題して一文をとの依頼があり、70才になったと云うそれなりの感慨を込め、これからも体をいたわり乍らゴルフを続けたいと書きましたが、その冒頭で古稀は数え年か満年齢かの私見を述べました。とろが世の中同じ疑問を持たれている方もおられたようで、2月23日付の産経新聞で解説されていました。要はどちらでもよいと云うことです。

しかし言葉は本当に面白いもので、今度は芦屋CCから「グランド・シニアになりました」と題して寄稿の依頼がありました。そこで1958年入会以来、45年に及ぶクラブライフやゴルフの思い出を書き、そしてこれからも頑張るぞとの前向きな気持ちを込めました。同じ70歳を迎えるにしてもそれに向かう自分の姿勢でポジティブにもネガティブにもなることを実感しました。又それを誘導する「言葉の力」の再発見をした次第です。

阪神総合卸商業団地の開設30周年記念研修旅行に、共に同団地理事の鍛治川君ご夫妻とご一緒に、1月にラスベガスとグランドキャニオン他に行って参りました。両所共二度目ですが、流石にグランドキャニオンは大自然の風格を保ち不変の雄姿を見せてくれましたが、ラスベガスは前回訪問した時とは街の様子は大規模なホテル(5500〜3000室)の建設ラッシュで一変しており、懐かしい旧市街が観光客誘致に四苦八苦している様子に時代の流れを感じました。

街の人口も10年毎に倍増、現在150万人と増加し続け、観光客も年間3500万人と隆盛を極めていますが、客室の改装などホテルの設備も高級化が求められ、宿泊料金も高くしないと投資に見合わなくなりつつあり、倒産ホテルもあり、正に優勝劣負の世界の様相を示していました。

私は以前から日本で提唱されているカジノ構想はやや安易過ぎないかとの感じを持っていましたが、本場の様子を見てあらためてその感を強めました。鍛治川君とはスタリオンCCでゴルフも楽しんできました。ロスでは入国のチェックが厳しくて、2時間の乗り継ぎでは間に合わず飛行機に乗り遅れ、結局6


時間かけてロスからラスベガス迄バスで移動を余儀なくされるなどハプニングがあり、あらためて世界情勢の厳しさを実感してきた此の度の旅行でした。

≪遠方からの便り≫

藤井 文明(昭36工)

昨年6月末に会社勤めを卒業したあと、海外旅行などを楽しんだが、仕事がないことはやはり寂しい。そこで初めての経験である職安へ行って職探しを始めた。

愛知県春日井市に優良企業があることを知り応募したところ、合格。早速今年の正月明けから勤務を始めた。いわゆる単身赴任である。始めにもらった名刺には社長室付と、所属部署のみで職格はなし、当然であろう。

それから1ヶ月経ち「室」はなしでいいと言われ、社長付となった。2ヶ月経ったら今度は社長代行になってくれと言われ、社長の留守の際には社長として振舞ってくれていいとの立場になった。なぜこんなことが起こったか?中小企業では、人材を教育する機会のないままにしてきたため、大きな会社で訓練を重ねてきた

小生のような経歴のものが、全く違う発想を持った男と判断されたのであろう。だらしのない姿形をした部長級を捕まえて社長の前で怒鳴りつけ、今からすぐ散髪屋へ行って髪の毛を切って来いと命令し(実は命令権はないのですが)、服装も今とは言わぬが、週末には洋服屋へ行って新しいものを買って来いと命じて実行させたところ社長が大喜びで、わしの言えないことをよく言ってくれたと感激され、社員の怪我の報告をためらっていた女性管理職にも同様に社長の前で鉄槌をかませたところ、これにも社長は大喜びで、それ以降は正に度を越したとんとん拍子で3月には小生のことを社長代行と呼べとなってしまったのです。

小生が普通に書類をまとめても実に仕事が早いと評価され、今までいい仕事をしてきた男はそれなりの顔付きになっていると社長から社員の前で小生のことを披露されたり、汗顔の至りここに極まれりであるが、社長に逆らうことは厳に慎んでいるので、小生への評価がここで定着した。今はわずか入社後3ヶ月であるが、仕事がこんなに面白いと感じた事がないほど毎日が充実しているところです。

≪南イタリア旅行記≫
  (旅行記特集6)

井上 光(昭35 法)

2月29日関空からシチリア、カプリ島中心の南イタリア12日間の旅に出発した。
ミラノ経由で最初の目的地シチリア島の中心都市パレルモに到着、古代から幾多の民族が植民地支配を重ね、幾つもの文化が残るシチリア島はマフィアの発祥の地でもあるがその背景には経済的な貧しさと人一倍の郷土意識、連帯感があるとのことであった。

島の南側の街、アグリジェンドにある「神殿の谷」の、ヘラ神殿、城壁跡、コンコルディヤ神殿、ヘラクレス神殿、ゼウス神殿等BC5世紀ごろの遺跡を見ていると、古代ギリシャ人の栄華が偲ばれ圧倒される。

タオルミーナはイタリアを代表する保養地で遠くに雪を戴いたエトナ山の勇姿を望みイオニア海に面した切り立った崖の街であった。メインストリートをリゾート気分でのんびりと散策し、Torroncinoで名物のアーモンドとホワイトチョコレートをミックスした自家製のお菓子を買い求め、絵画同好会へのおみやげとする。

アルベロベッロは、世界遺産の一つ、とんがり屋根のトウルッリの並ぶ街。早朝に一人で散歩していると白い子犬がどこまでもついてくる。聞くと我々が宿泊したホテルのガード犬で、市内観光の時など自動車がグループに近づきすぎると、車に向かって吠えてガードしながら先導してくれ、観光を終えホテルに帰ると先に戻っていて玄関で出迎えてくれるというサービスぶりにはまいった、まいった。

ポンペイは2000年以上前に栄えAD79年のベスビオ火山の噴火によって火山灰の下に埋もれてしまった街。公衆浴場、肉魚の市場跡、パン屋、墓地等があり、当時の荷車が行き来した石畳には車輪の轍がはっきりと残っていた。また売春宿の看板として男性そのものズバリの石の彫刻が残されていたのにはいささか驚いた。

料理は、前菜の味は少し辛めで、メインディッシュは薄味。前菜が辛いのはワインを美味しく飲むためとのこと。団体旅行の定食だけでは物足りないので、ローマの最終日に仲良し6人組で、盛装して、高級レストラン、アンドレアへ行くことにした。各種料理を6種類ずつ注文し、夫々を6分の1ずつ分け合ったが、どれもこれもさすがに味はすばらしく、酒もはずみ、ワイワイ言いながら夜更けまで料理を堪能、店の経営者がサッカーの中田選手が来店した時に一緒に撮った写真をプレゼントしてくれるおまけまでついた思い出深い晩餐となった。

古代ギリシャの生んだ哲学、科学、美術がヨーロッパ文化の重要な源泉の一つとして、人類の歴史に深い影響を与えていることを実感しながら帰国したが、今回の旅行は食の細い人と同行したために、勿体無い病が再発し、3kg増量の旅でもあった。


≪ちょっと一言≫

森本 富夫(昭36法)

(株)丹波野菜工房を友人と設立、ベビーリーフの栽培を始めました。

農業構造改革の一環として農業分野に進出するのは初めてのことなので注目されています。

2004年3月号掲載

≪ジャズメンとの交流≫

黒田 豊夫(昭37政)

思いもかけずニューヨーク在住のジャズピアニスト白崎彩子(しらさきあやこ)さんから手紙が届いた。私が東京から神戸に帰って来た‘97年に彼女がニューヨークに旅立って8年ぶりの便りである。2月24日に東京をスタートし、日本各地で1ヶ月のライブ&ツアーの計画だという。来る3月3日に大阪のミスターケリーズでライブをするので会いたいとのことだった。

白崎彩子さんは5歳よりクラシック、10歳でジャズピアノを始め、14歳頃には新宿「J」にレギュラー出演していたという。高校と東京芸術大学ではクラシックに専念し、卒業後暫くしてジャズに戻り活躍中である。一度彼女のサイトにアクセスして頂けると、プロフイールがよくお判りいただけると思う。

私は神戸に戻って8年になるが、幸いなことに東京のメンバーとは未だに交流が続いている。
殆どが関西は毎年1回位のライブだが、必ず連絡が貰えるので、毎年再会を楽しんでいる。限られたメンバーだが、少し名前を揚げさせて頂きたいと思う。まず、チコ本田さん、彼女はテナーサックスの渡辺貞夫さんの妹である。私とよく似た年代で頑張っておられるので敬意を払い、かつ彼女からパワーを貰っている。フロリダのヨーコサイクスさんは毎年、春になると日本にやって来る。

ところでよく考えてみると、彼(女)等は、いわゆる大学の「ジャズ研」出身で活躍している人達が多い。ピアノでは元岡一英さん(慶應義塾)、守屋純子さん(早稲田)、甲斐恵美子さん(青山学院)、ボーカルでは小笠原千秋さん(津田塾)、野間瞳さん(学習院)、古閑みゆきさん(同志社)、等々、ジャズ界では結構有名で皆さん元気に活躍中である。  

もうかれこれ何年になるのか、これらの皆さんと毎年お会いしては、愉快な会話やライブを楽しませて貰っている。(隠れジャズファンでもある。)

名月や ジャズを愛でつつ 今日もまた

≪イタリア歴史遺産の旅≫
  (旅行記特集5)

樫根 みづえ(昭41政)

昨年12月、3回目のイタリア旅行に行ってきた。今回は、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノはより深く、又それ以外の中小の都市の歴史遺産をも逍遥しようという欲張りなツアーである。特に印象に残った都市、美術館、建築物などほんの一部分ではあるが思い出を辿ってみよう。

ミラノの南にあるパヴィアの僧院は、玄関の美しいフレスコ画に魅了させられた。中庭の正面の大理石で作られたファッサード、回廊のだまし絵など、さすがにルネサンス建築の傑作と云われる所以である。大回廊を取り囲んで修道士の独居房が並んでいる。修道士達は誰とも顔を合わさず、ひたすら厳しい修行を続けていたそうで、俗人の私には想像を超えるものであった。

ヴェローナとヴェネツィアの中間に位置するヴィチェンツァは、建築家パッラーディオとその弟子達による建築物が多く、「パッラーディオの町」と呼ばれ市街全体が世界遺産になっている。極め付きは「テアトロ オリンピコ」と呼ばれる劇場であった。古代円形劇場を模して作られ、舞台は遠近法を使い、奥行が実際の3倍にも見えるように設計されている。急な角度の13段の半円形状になっている客席の最上段から見ると、舞台は立体的な一つの町を作っていた。16世紀に建てられた劇場が、記念建造物だでではなく、現在もオペラや演劇が上演されているというのが何とも素晴らしい。

崖の上に立つ世界で一番小さな共和国のサンマリノに泊まった。ホテルへ行くバスから見たクリスマス イルミネーション、山頂から眺めた大パノラマ、出発時間を遅らせて発行してもらった美しい入国スタンプ等、今も楽しい思い出だ。

こうしてミラノから南下してローマに至るまでの15日間の旅は、心地良い余韻を残して終わりを告げたが、豊かで味わい深いイタリア文化の奥行きをあらためて実感した。

次は南イタリアへと、私の“イタリア詣で”は当分続きそうである。

2004年2月号掲載

≪元気です!(その後)≫

森本 周子(昭25文)

『あせる馬鹿、あせらせる馬鹿、あせらされる馬鹿』この三つの馬鹿のうち、最も重症は最後の項目である。本質的には、あせる要素がないにも拘らず他動的にやられてしまい、行動の自由を失う人、愚にもつかぬことを、あれこれと考える私は最大級の馬鹿といえる。

一昔前、クレージィキャッツの親分であったハナ肇が、たしかコマーシャルか何かで「あんたかてアホや、うちかてアホや、ホナラ、サイナラ〜!」と言った姿を思い出し、このリズム感に富んだ言葉は、大阪弁の特長と相俟って耳ざわりもよく、人の心に暖かく訴えかけた。

私など60歳の前半では、何とかやりたいことの半分は出来たように思うが、後半は多分四分の一もまともに出来ないであろう。身体の不調は昨年以来急増し、気分的にあせることばかりである。
「そんな時は、よくよく気を付けなくちゃ駄目よ!」と大学時代の友人から言われる。彼女はひたむきに源氏物語の世界に入って、その真髄を多くの人々に伝えようとしているのだから偉い。よほど強力な意志がなければ出来ないことである。私は、意志薄弱で周囲の力になされるままに動く衝動が、年を重ねる毎に増えて行く。体力が弱ると気も弱くなるのは、凡人では避けがたいことかもしれないが、我ながら自分の近況にあきれかえるばかりである。

≪アダナ暮らし・・・その(1)≫

池田 雅彦(昭39工)

皆さんこんにちは。トルコにきて早8ヶ月がたちました。
未知の土地で、初対面のトルコ人の中に飛び込んだ割には、仕事も順調で初めて経験するコンサルタントの仕事を楽しんでおります。

当地アダナはもうすぐ地下鉄が走ると云うトルコ第4番目の都会ですが、日本人男性は今のところ私一人住んでいるだけです。赴任前からの心配は、ゴルフ場や日本料理店がないことでしたが自分なりに次々と楽しみを見つけ今日に至っております。

来て間もない頃、最初に覚えたトルコ語は「ブネカダール?(コレ、幾ラ?)」と「チョーク・パハール(チット高イナ・・・)」の二言でした。そもそも生まれが関西で、更にフィリピン、タイ、中国、スペイン等々を渡り歩き、ひたすら「値切る」技術を磨いてきたような私は、トルコもその種の国であることを知ると、とたんに胸が騒ぎじっとして居れない気持ちになったのであります。休日をもっぱら店を冷やかしながら街の隅々を歩いて過ごしていた頃の話です。

日本で5千円する養毛剤がアメリカでは半額だったのを思い出して、アメリカンバザール(アメ横)に買いに行くことにしました。いつもの通り「ブネカダール?」すると髭のオヤジは何と50ミリオンリラ(4千円)を計算機で示すではありませんか!外人とみて足元を見たな!すかさず「チョークパハール」と云って相手の計算機を取って25ミリオンリラ(2千円)を示しました。すると30ミリオンリラで良いと折れてきました

そこで済ませば良いのですが、東南アジアで昔鳴らした腕をためしたくなるのが私の悪い癖です。
にっこり笑いながら「ベン、トルッキエ、セヴィヨルム(ボク、トルコ大好キ)」とオヤジの肩を撫でる。「OK!25ミリオンリラOK」これで交渉成立。つり銭の5ミリオンリラを受取り、「やはり、トルコではこの殺し文句に限るな・・」など思いながら意気揚々と店を出ました。

いつもの街角で焼き栗を2ミリオンリラ(160円)がとこ買おうと思って、さっきのつり銭の5ミリオンリラを差し出しました。すると、急に焼き栗のオヤジが目をまん丸にして渡したお札を突っ返すではありませんか!「オヤ!?」と思って慌ててお札のゼロの数を数えました。何とそのお札はゼロがミリオン(百万)に1ツ足りない5ツ、50万リラ札(40円)だったのです・・・・。(アメ横のオヤジは29.5ミリオンリラ受け取っていることになる。)

焼き栗オヤジが怒るのも無理はないと謝りながら引き上げましたが、「あっぱれ、あっぱれ」とアメ横のオヤジの見事な手口に頭が下がる思いと、見事にしてやられた自分の甘さに思わずニンマリ苦笑いをしながら帰りました。この貴重な体験のおかげで、それ以来、ゼロの数で勘定を間違えたことはありません。

次回レポートを楽しみにしています。(編集部)

≪メルボルンを訪ねて≫
  (旅行記特集4)

出口 英雄(昭37工)

昨年の11月末から1週間程オーストラリアに行って来ました。

昭和34年、私は日吉の教養から、当時専門部のあった小金井に移り、工学部サッカー部に入部した。1年先輩、同期、1年後輩に国体にも出た優秀な部員が揃っていて、かなり激しい練習と、夏・春の地方での合宿をこなし、学業は勿論、サッカーにも打ち込んだ素晴らしい仲間がいた。

卒業以来40数年、メルボルンに居る1年先輩のY氏より、遊びに来ないかとFIT(工学部サッカー部のOB会)に誘いがあった。Y氏は大手商社のメルボルン支店長を最後に独立し、メルボルンにて貿易会社を経営している。

12月1日にメルボルン集合と決まったので、イーゼル会の間をぬって関西から一人参加することにした。
先ず、シドニーに入り、ナイトクルージングを楽しみ、市内は歩いてあちこち回り、お決まりの水族館見学などで2日ほど過ごした。

メルボルンで、40年前ひたむきにボールを追った懐かしい仲間達との再会となった。
1日目はY氏宅でおいしいワインと奥様の手料理に感激し、昔話に時間を忘れ、2日目はY氏のホームコースでゴルフ。スコアは別にして楽しい時間を過ごした。夜はおいしいシーフードレストランで再度旧交を暖めた。3日目は市内散策、水族館見学の後、フィリップ島へ赴いてカンガルーとたわむれ、かわいいリトルペンギンウォッチングと短いながらも充実した3日間を過ごした。

皆と再会してみると、それぞれ若い時の面影を残しており、あっという間に慶應時代の仲間に戻ってしまった。

海外への旅と言えば、会社からの出張や自分で企画した視察旅行がほとんどだったが、こんな旅もたまには良いものだと、一寸感傷に浸りながらメルボルンを後にしたのでした。

≪近況報告です≫

青戸 統子(昭29文)

昨年11月末、デュッセルドルフでの欧州合同三田会に旅の帰りに寄りました。
80人ほどの塾員が英、仏、独、オランダ、ハンガリーetc.から集まり、大変貴重な思い出となりました。

≪近況報告です≫

曽野 洋(昭62法)

以下3点を通して、近未来の教育を展望しています。

(1)玉川大学教育学部助教授として、「学校制度論」を担当。教育改革の論点を講義しています。

(2)慶應義塾大学SFC研究所・慶應義塾福澤研究センターにて、変革期の教育改革の特徴に関して研究・調査しています。

(3)文部科学省「小規模市町村教育委員会広域化モデル事業」検討会議の委員として、自治体合併後の教育行政の在り方について模索しています。

≪NHK「その時歴史は変わった」VTR撮りしたのにON AIRは名前だけ!≫

川崎 洋子(昭53文)

1月例会で芳川さんが1月29日の放映についてPRしてくださったにも拘らず、当日の放映では画面のどこにも現れなかったのです。見ていただいた皆さまは何故?と思われたことでしょう。

ビール酵母のパンが明治時代の人には馴染めなかった。そこで当店の「ビール種のパン」を引き合いに出すのは忍びないということらしいです。
編集会議で決まったこととはいえ、何も前日になって知らせなくても・・・てんやわんやでした!

これが放映断念のいきさつです。ザンネン!

2004年新年号掲載

≪公立中学校の数学について≫

王鞍 延子(平4文・12経)

敗戦後ほぼ60年の歳月が経つ。昭和22年に発足した公立中学校の数学の内容には、種々の変遷がある。昭和23年には、水準が高すぎるとのことでアメリカから1・2年分下げられたこともあり、生活単元学習の1分野として位置付けされた。

日本が独立国となってからは、教育関係者らにより、昭和33年には、独自の系統性のある学習指導要領が作成された。その内容は、これから日本が発展していくために、科学技術の向上を目指し、数学教育の重要性を示したものであり、中3では週5時間も可能であった。中身は、A数、B式、C 数量関係、D計量、E図形となっていた。

その後、集合論に代表される数学の流れは、数学教育現代化の方向に進んでいく。先端を行く教師たちは、いかにして現代化を中学生に取り入れるか研究した。三田の図書館にはこの足跡が有り、その成果は、中学生の教科書に取り入れられているのを知った時は驚いた。

昭和44年の学指要の内容はがらりと変わった。A数と式、B関数、C図形、D確率と統計、E集合と論理となった。たとえば、方程式の解も集合の規則にしたがって書くとか、すべて集合を基本にして考えるというもので、実施すると生徒、教師に混乱が生じ集合とは何か、必要なのかと社会問題化するまでになった。
落ちこぼれ、切り捨てなどの問題が発生した。

そこで昭和52年の学指要の改訂では、集合、論理はなくなり、55年実施からは、基礎重視に軽減された。そしてその後内容は、多くなることはなく、今年からはさらに授業数も内容も少なくなっている。昭和30年代、40年代に普通の中学生たちへの数学教育の重要性を述べ、技術国日本の発展を願った熱気は、現在あまり感じられない。将来日本を背負う普通の中学生にきちんと数学を教育していくことは、非常に大切と思っている。