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2002年12月号掲載

書籍ご紹介「詐欺師のすべて」

高田 育明(昭51医)

久保 博司著 文春文庫 524円
(2002年7月1日第1刷 発行 )335ペ−ジ

バブル崩壊後、特に凶悪な犯罪、青少年の犯罪、詐欺、だましの犯罪などなどの報道を聞かない日はほとんど無いと言うような「犯罪天国 日本」と表現しても良いような状況となっております

街には消費者金融の無人契約機が氾濫し、テレビでは武富士、レイク、@ローンなどの「高利貸し」のCMがとても元気よく、市民権を得たようです。若者たちも「高利貸し−−質屋」を利用しているという罪悪感−−後ろめたさは全く見られなくなり、日本人の精神的退廃を象徴するもの、次の時代を背負う若者の精神構造を堕落させているとしか思えません。しかし、タバコのCMでさえ規制されているのに、このようなCMを規制しようという声は全く聞かれない現状です。

加えて、「浜の砂は尽きるとも世に”サギ”のネタはつきまじ」と五右衛門の辞世の句をもじったように、最近の新手の詐欺として、「090金融」と称する携帯電話を利用した非合法の悪徳金融業者も多数暗躍しているそうです。

私たちも思わぬ事件に巻き込まれてしまう場合がありますので十分注意してください。

本書の紹介:気がつけば自分の土地が他人のモノに・・・!? 世間を騒がせた林真須美の保険金詐欺にはじまり、あの手この手で土地や金品をだまし取る、現代の詐欺師たちの暗躍を描いたノンフィクション。専門知識を駆使し、法の抜け穴を巧みにかいくぐり、世相を映して日々進化する知能犯が、あなたを狙っている!

詐欺師の鉄則15箇条
第1条 自分は詐欺師ではないとの信念を抱け
第2条 演技力を磨け
第3条 権威を利用せよ
第4条 人の弱みをにぎって活用せよ
第5条 無価値のものを価値あるように見せかけよ
第6条 真実を核にして嘘を構築せよ
第7条 最初はまともな話で相手を安心させよ
第8条 騙すなら徹底して騙せ
第9条 前科のない者を表に立てよ
第10条 必要なら契約書をつくって安心させよ
第11条 相手をあわてさせ、冷静さを失わせよ
第12条 あらゆる手段を使って時間を稼げ
第13条 引き際を心得よ
第14条 強い返済要求には応じよ
第15条 騙し取った金は隠しとおすか使い切れ

著者紹介; 久保 博司(くぼ ひろし)
1941年長崎県生まれ、ノンフィクション作家。早稲田大学文学部卒業後、業界記者、翻訳者などを経てフリーに。著書;「日本警察」(講談社)、「日本警察の不幸」(小学館文庫、「警察崩壊!」「ザ・泥棒家業」(宝島社文庫)など。

神戸市シルバーカレッジの学園生活

浅沼清之(昭36経)

40年在籍した損保会社をリタイアし、神戸市シルバーカレッジの「生活環境コース」で学生生活を送っていますが、しあわせの村にあるキャンパスで、学習と交流を楽しんでいます。

身近な兵庫県の自然と環境問題や、神戸市のゴミ事情、街づくりと環境アセスメント、水や大気、エネルギーの学習等、生活環境全般に亘るカリキュラムについて、各分野の専門家の指導を受けることができますので、結構いい頭の運動になります。森林公園に出向いての、植物・野鳥の観察や、ゴミ処理場、クリーンセンター、リサイクルセンター、浄水場、下水処理場の見学等、長年神戸に在住しながら、自分で足を運んだことのない所が、如何に多いかを痛感しています。

社会経験の異なるメンバーが、グループ学習で、共通のテーマを纏める作業等も行われますが、それを機会に、新たな交流が生まれることが、貴重だと感じています。

来年の3月で、3年間の学生生活を卒業することになっていますので、老化防止のための、次の課題を今から探しておかなければと思っているところです。

2002年11月号掲載

私の思い出スポット
〜〜祥福寺〜〜

堺 充廣(昭53法)

兵庫区五宮町にある祥福寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、禅道場を開いていることでも有名な名刹です。ポートピアホテル屋上からの朝日放送の映像で、ポートタワー越の山腹に三重の塔が見えるのをご覧になった方も多いかとも思います。その三重の塔があるのが祥福寺です。

祥福寺は、私の実家から幼児の足でも20分程度の位置にあったため、幼稚園の遠足やプライベートで、何度も境内に遊びに行っていました。寺は木々に囲まれ、秋にはきのこやどんぐり採り、冒険好きの幼児だった私は、長時間一心に遊んでい
たことを覚えています。

この6月、故佐藤國吉さんの葬儀が行われたのが祥福寺で、40年ぶりに訪れました。ところが何か以前の印象と異なるのです。中々石段と茶色い山門が見えてこないのです。「あれっ?」と思いながらもさらに歩いていると、やはり幼いころに持っていた印象と異なるのです。正確かどうかははっきりしませんが、私の記憶では、寺の周りはもっと木が多く、民家は山麓線寄りに建っていただけだったような気がします。

山門付近に来ると、寺のすぐ前まで民家が建っていましたし、東側には鉄骨作りの会館が建っていました。元々、五宮町というのは住宅街で、住宅が密集している地域でしたが、そんな中にありながら、うっそうとした森に溶け込み、重厚な雰囲気を備えたところが祥福寺の特長だったように覚えています。自然の中に同化したというか、山という自然と寺という構築物が見事に調和していたため、幼い私の記憶にすんなりと溶け込み、心地よい場所として記憶に残っていたのだと思います。

私は、神戸生まれの神戸育ち、生粋の神戸人です。神戸をこよなく愛し、いつかは神戸に戻り、神戸の役に立ちたいという気持ちを持ち続けていました。5年前、裁判官を退官し、神戸に戻ってきたのもそんな思いからでした。震災から7年が経ち、街は相当程度復興してきたと思います。しかしながら、昔の神戸を知る私にとって、復興後の神戸の街は何か違う印象を持っています。

祥福寺周辺は比較的震災の影響を受けなかった場所ですので、今回私が感じた違いは、単に40年の歳月を経た都市化の結果だと思います。ノスタルジーを感じるにはまだまだ若い私ですが、心の中にある神戸を思い起こし、これからの神戸を考える機会にしてみたいと思っています。
会員の皆さんは、それぞれの神戸・芦屋・西宮のイメージをお持ちでしょうか。

≪ホッケー≫

鍛治川直広(平14法)

ホッケーというスポーツをご存知ですか?アイスホッケーやラクロスとも違う、「ホッケー」です。
ホッケーは11対11のプレイヤーがスティックでボールを操り、ゴール数を争うサッカーに似たスポーツで、私は高校よりずっと體育会部員としてホッケーに親しんできました。

日本では今から約100年前の1906年に慶應義塾大学に伝わり、現在では国体やオリンピックの正式競技となっています。

日本においてホッケーはマイナースポーツですが、実は世界で2番目に競技人口の多いスポーツなのです。ホッケーが国技となっているインドやパキスタンでは、ブラジルの子供がサッカーで生きていくように、ホッケーで生計を立てています。さらに日本に複数存在するホッケーの街では、普通の家庭でお父さんと子供がキャッチボールをするように、ホッケーで家族サービスが行われていたりするのです。

こんなホッケーに、もし興味を持たれた方は、是非!私までご連絡くださいませ。

2002年10月号掲載

お気に入りの散歩スポット
〜〜須磨・横尾山周辺〜〜

宍戸 洋(昭58法)

私は、神戸市営地下鉄妙法寺駅を中心に広がる横尾団地に住んでいます。この街は、通称「須磨アルプス」と呼ばれ六甲全山縦走路にもなっている横尾山・栂尾山の連山のふもとにあり、自然豊かな環境のもと、散歩スポットにはこと欠きません。 その中でもお勧めなのが、2時間ほどで素晴らしい眺望と自然が堪能できる須磨アルプス縦走コースです。

まず、横尾から西へ、横尾山の麓沿いにきれいに整備された横尾背山散策道を通って隣団地の高倉台まで歩きます。この道は住宅地から身近に自然が満喫できるすがすがしい散歩道です。そして、高倉台から山の中を通って横尾に戻るのがこの縦走コースです。縦走コースの入り口へは、まず400段の階段を登ります。この階段を上る時にその日の体調、その時の体力が把握できます。

しかし、苦あれば楽ありで、登りきったところにある展望台(栂尾山頂上)からの眺望は、素晴らしい。西側には大橋のかかる明石海峡を隔てて淡路島がどっしりと横たわり、天気がよければ、友が島、家島、小豆島までが見渡せます。夕方、真っ赤な夕日が空を染めながら、その水平線へ沈んでいく光景は圧巻で、筆舌に尽くしがたい。

また、東にはおしゃれな神戸市街地から大阪湾沿いの街々が、北側には整然とした西神ニュータウンが広がっています。その頂上を過ぎると、森林帯および露岩帯の中、須磨海岸を右手に見て野鳥の声や葉擦れの音をなだらかなアップダウンを繰り返し、横尾山頂、東山山頂を経て横尾団地に降りてきます。横尾山東側の岩の上からは、きらきら輝く海、近代的な神戸市街地の背後に、高取山、菊水山、鍋蓋山、高尾山、摩耶山、東六甲と、六甲連山の主峰が幾重にも連なってはるか遠くまで続いているのが見渡せます。

まさに、この世に生まれてよかった、神戸に住んでよかった、と思える瞬間です。また、横尾山と東山の間には、露岩帯があり、馬の背と呼ばれるやせ尾根や鎖場、梯子階段があり、ちょっぴりスリルとアルペン気分が味わえます。

時にはコースを外れて、尾根から谷川へ降りて行くと、沢蟹に出会えることもあります。
この街に住んで14年になりますが、何度通っても、いつ通っても、気分がすっきりとなり、生きる元気を与えてくれる、わが人生にとってかけがえのない散歩道です。

車にまつわる話

寺本 勤(昭46商)

我々の世代は、ホンダ・フェアレディー・日産3Sやトヨタコロナなど、日本のモータリゼーションの幕開けと共に育ってきた年代で、特に車への憧れやこだわりは強いのではないかと思います。学生時代のことですが、下宿にはガレージはありましたが家主さんは車を持っておられなかったので、厚かましく利用させていただくべくお願いしたところ格安でOKをいただきました。

早速、神戸ナンバーの車を持ち込み、卒業するまでの4年間便利にそして有意義に?利用させていただきました。

ところが、卒業直後、下宿を出てちょうど一週間後、4年間のお礼にとお宅へ伺いしましたところ、何とそのガレージにピカピカの新車がデ〜ンと鎮座されているではないですか!!

お世話になっていた4年間、一度も車を購入したいとか、明け渡しをにおわすような申し入れや、もちろんいやみの一言も一切なく、小生に取りましては全く予想もしていなかった事態を目の当たりにし、下宿のご家族の皆様に、申し訳なく、同時に感謝の気持ちで一杯になってしまいました。
その時、私の驚きを察した下宿のおばさんは、「寺本さん、ありがとうございました。4年間のガレージ代でこんな立派な車が買え、みんな大喜びです・・・・」とお礼を言われたのです。
流石にこの一言には参りましたが、4年間本当にいいご家庭で下宿をさせていただいたのだなと、改めて熱いものを感じました。

その後も、私の結婚式や娘の結婚式にと、今日にいたる30数年、ずっとお付き合いをいただいております。

ちょっと車に纏わる話が長くなってしまいましたが・・・・・・、でもちょっといい話でしょう!!

いきなり孫二人

藤井文明(昭和39工)

今年の3月に次女が初産して初孫を得た。続いて長女も7月に初産して二人の孫ができた。
孫はカワイイよと言われ続けてきたが、自分達に孫ができるまではそんな気には全くなれなかったのに、いざ出来てみると手放しでカワイイ。誠に勝手なものだ。

生まれたての初孫を見ていて驚いたことがある。REM睡眠をしているのだ。夢を見ている時に眼球が速く動く現象であるが、母親の胎内の暗い闇の中に長くいたのに、生まれてすぐでは目も見えていないと言うし、夢の原因となる記憶があるのか全く不思議に感じられた。

小生は信じていないが前世の夢をみているのかと疑いたくなるではないか。4ヶ月遅れで生まれた次孫は(こんな言葉があるのかどうか知りませんが)初孫に較べて小さくて抱いてやるのも怖い感じであったが、しばらく会わない期間があってから会ってみると随分大きくなった感じがした。

自分達の子供は毎日顔を見ていたのでどんどん成長して行く感じはしなかったが、娘達とは同居していないのでしばらくして孫の顔を見るとすごく大きくなった感じがして頼もしい。その後順調であったが、初孫が虫に刺されたらしくそこを掻いたら膿んで、入院した上切開して処置してもらった。1週間後に次孫までが全く同じ症状で入院した。怪我のようなことが感染する訳ないのにといぶかったが、事実である。

その後初孫に会ったら小生の顔を見てもいつもの笑顔がなく、顔をそむけてべそをかき出すではないか。こうなるとかわいくなくなる。これまた勝手な話だ。家内や娘の詮索に依れば、前に会った時と服装が違う、眼鏡が違うことから、切開して痛い目に会わされた医師と間違えたのではとのことであったが、いやがる孫をしばらく抱いてやったらやっと思い出したようで、笑顔が戻ってほっとした。這えば立て、立てば歩めの言葉どおりのジジババ振りの日々が続きそうである。

2002年9月号掲載

「趣味」欄顛末

瀬尾宏郎(昭34経)

慶應倶楽部入会の際、趣味欄に記入しようとして思い留まった趣味について述べてみたい。
実は、国鉄の記念切符の収集が趣味だった。
過去形になったのは、国鉄が民営化されJRになったからである。

東京勤務当時(昭和50年代)、地下鉄の開設・延伸が盛んで長男を連れて度々乗車し、記念乗車券を購入していた。これをキッカケに国鉄でも記念切符が出ていることを知り、収集を始めることにした。切符としたのは、発行されるのが乗車券だけでなく、入場券・特急券・急行券など色んな切符があるからだ。

何時頃から発売されるようになったかは定かではないが、当初は乗車券が主体で、皇族の行幸・行啓・軍事演習を記念するもので何年かに一件程度であった。
戦後になり40年代頃までは、新線の開通、電化、新駅の開業などが主なテーマで、記念券・乗車券が中心で発売も年30件程度だった。

これが45年以降は急速に発売頻度が高まり、年200件以上となった。種類も急行券・入場券が急増し、テーマも従来のものに加え、「さよなら蒸気機関車」・特急・急行の新設・増発などがある。

50年代に入ると、各鉄道管理局から、文化財・観光地・お祭り・史跡などのシリーズものが増えてきた。また51年は天皇御在位50年を記念して、30件余りの急行券が発売された。そして、60年代に入ると国鉄民営化ということで、各種お別れ記念切符が発売され、余りの多さに発売内容を把握できないままの状態である。

今改めて整理してみると、国鉄の発展の歴史、記念とは無関係のシリーズものの発売という商業主義なども見えてくる。

収集当初は、アルバムの冊数も少なく、友人が来た時、目を通すまで酒は出さないといって無理に見せていたが、今や70数冊ともなると可哀相だ。

国鉄は永遠で、エンドレスの収集と思っていたが、JRとなって終点ができたので残りを何とか集めたいと思っている。

北の大地へ

徳丸公義(昭和54商)


≪美幌峠のパノラマ≫

突然思い立ち、北海道へ行くことにした。
久しぶりの一人旅。かつての青年は荒野を目指した。愛車で走りこむためフェリーで舞鶴から小樽へ。家を出てから40時間後の午前4時に小樽到着。

ここからラベンダーで有名な富良野とお花畑の美瑛を駆け巡る。旭川泊。本日の走行距離394km。翌日は層雲峡を経て30年前からの憧憬の美幌峠を目指す。走る。走る。東へ向けて。車も人も快調だ。スピードメーターがぐんぐん上がる。一般道路で初めてアクセルを床まで踏みつけて(ごめんなさい)時速???kmの世界を垣間見る。それでも目的地までは遠かった。

ようやくオホーツク海まで数十キロの地点で峠に近づく。いくつものカーブを曲がりに曲がる。そして遂に頂上へ。この360度に広がる景色はどうだろう。彼方に阿寒湖が光を放っている。目の前に大きく広がる屈斜路湖の吸い込まれそうなブルー。体の中を風が吹き抜けていく。ああ、ここが美幌峠。満足だ。

せっかくここまできたなら摩周湖へ。霧はまったく漂っていない。流れ込む川のない神が住む  という澄んだ湖。

カルデラ湖のため周囲は険しく切り立ち、人の侵入を凛として拒んでいる。しかし全体に緑に囲まれ、悲しいほどに美しい。その後阿寒湖で毬藻を買ったあと帯広へ向かってひたすら西へ走る。ようやくホテルに到着。本日の走行距離 530km。一般道路だけの距離としては私にとっての新記録。翌日は襟裳岬を駆け抜け苫小牧から再度小樽へ。走りに走った北の大地ともいよいよお別れだ。本日の走行距離 430km。

いいですねぇ。ブラリ青春一人旅!
忘れかけたもの、見つかりましたか?(ほ)

京都五山の送り火

池田雅彦(昭和39工)

京都の夏はとにかく暑い。(今年の神戸も暑かったが…。)京都は四季折々の変化を、色や音、それに香りで感じ取れる点ではホントに恵まれているが、夏の暑さだけはどうしても頂けない。
今のようなク−ラ−がない時代は、耳の奥深くジ−と鳴り続ける蝉の声に囲まれながら、じっとしていても汗がしたたり落ちるのが常であった。

そんな暑い京都の夏の大きな行事は祇園祭りと大文字の送り火である。
ところが祇園祭りは、ちょうど時期的に中高時代は学期末試験で忙しい最中であったし、大学時代はまだ授業があって東京にいたので、私にとっては殆どこれといった思い出は残っていない。

私の家は銀閣寺の北西、北白川にあったので、家の2階は大文字を見るための特等席のようなもので、少々煙も見えたが迫力のある光景を毎年見ることができた。
大きな炎とともに、お盆で戻っていた御先祖様の霊が天に戻られると言う言い伝えが真に迫っていて、神妙に手を合わせたものである。大文字の送り火は、私にとってはそんな厳かな歳時であるとともに、だらだらとした暑い毎日にけじめをつけるのに大きな意味があった。

小・中・高までは、「遊びほうけた夏休みもあと2週間、今から必死で宿題を片付けないと…」と悲痛な思いで炎を見続けたし、大学の頃は9月から始まる前期考査の準備が急に気になり、やがて親元を離れ東京に戻らねばならぬ寂しさを感じながら炎をみていた。

この大文字の送り火を境に、京都では鬼やんまに代わって赤とんぼが増え始め、「ミンミン、ジ−ジ−」とうるさかった蝉に代わって一斉に「つくつくぼうし」の声が聞かれる。この急激な自然の移ろいは見事なもので、私も負けじとばかり生活態度を変えようと努力したのが懐かしく思い出されるのである。

2002年8月号掲載

「慶應義塾大学一人勝ち」
で大丈夫?

高田育明(昭51医)

慶應義塾大学の皆様に一言お話をさせていただきます。

近年の慶應義塾大学の卒業生および関連の皆様方の活躍は、政治、経済、マスコミ、医学をはじめとする学問領域等において、非常に目を見張るものがあります。余りにも突出しすぎており、まるで「慶應義塾大学一人勝ち」という表現がピッタリのようです。このことは卒業生の一人としての私には誇り高く、大変喜ばしいことですが、ここで1つの警鐘を鳴らしておきたいと考えます。

1990年代の世界一の経済大国と煽てられバブル経済に浮かれていた日本の事を思い出して欲しいのです。絶頂期と思われる頃には、既に「凋落の芽」が忍び寄っていることが良くあります。一旦、凋落(バブル崩壊)が始まると誰にも止めようが無くなってしまいます。

現在の慶應義塾大学の状況はまさに”絶頂期”と表現しても良いと思います。この様な状況の時こそ、足元を見つめ直し、謙虚に周囲の意見に耳を傾け、個々人の実力を高める努力を常に心がけておくことが重要と考えます。

この様な心配が”杞憂”に終わることを心より祈っております。

「私の愛犬」

清水英文(昭37法)

 

常日頃から、用心の為にも犬を飼いたいと思い続けていたが、『世話は誰がするの?』の妻の一言でこの件はいつも却下されていた。

平成11年のクリスマス、近くのペットショップを覗いた時、一匹の小さな牝の柴犬と目が合った。まるで『お父さん!!』と訴える様な目に釘付けとなり、気が付いた時には、我が家族の一員となっていた。名前は、クリスマスのジングルベルに因み『ベル』とした。血統書には「春日錦」とあり名門出身のようだが、豆柴と思える程小ぶりで、顔もキツネの様で、美人(犬)とはとても云えないが、我が家の四女としてなくてはならない存在である。

2年間程、庭に放し飼いにして散歩は省いていたが、半年位前より、私の運動も兼ねて、朝夕散歩に連れて歩くようになった。阪神淡路大震災以来、家の廻りのゴミ拾いを早朝の日課としていたが、ベルとの散歩が習慣となり、その折にもゴミを拾う様にして、その範囲も家の廻りから、近くの公園や道路にも拡大してきた。ベルとの散歩のお陰で小生の体調も頗る良く、大きな腹も少しは凹んで来たように思う。ベルもこの散歩を心待ちにするようになり、小生の足音で裏口で待つまでになった。

しかし一つだけ解決できない問題がある。長い間、一人(匹)で庭だけに居た所為か、仲間同志の付き合い方が解らないようで、他の犬に近づくと、すぐに『ウーツ』と唸り声を上げ、友達が一人も、いや一匹も出来ないことである。何はともあれ、ベルのお陰で健康でそして楽しい日々を過ごす事ができることを心より感謝している。

2002年7月号掲載

当倶楽部の長い会員で、関西婦人三田会(K.L.A.)の創設者でもある森本周子会員(昭25文)がKLAホームページで健在ぶりを披露しておられます。
http://plaza11.mbn.or.jp/~kla/home/kla/ をぜひご覧下さい。

 

付記
つぶて(礫)の用例は、平安朝初期の「宇津保物語」に「つぶてを打たせ給ひ」とあり、中期の「落窪物語」にも見られ、又、後期の「十訓抄」にも記載がある。 「無しの小石」は江戸時代(元禄の頃、即ち、紀元1600年後期より1700年の前期迄)歌舞伎「吹雪花小町於静」上演の時が初出と見てよい。 以来、小石は、投げても返って来ない所から、現代に至り、無駄な努力という意味につかわれている。

≪記事提供:KLA幹事長・金澤恵子さん≫

2002年6月号掲載

神戸まつりは
阿波踊りでススメ!

芳川玲子(昭41文)

前夜、襦袢に半襟を懸け、足袋にアイロンをあてる。幼い頃は母が夜なべで祭り衣装を縫ってくれた。お祭り好きは今も変わらない。
「明日は晴れるかしら」と独り言。

去年神戸まつりは7月の炎天下、踊るアホウもウンザリしたが観るアホウも少なかった。
一昨年は連の後ろにバリバリのサンバチームが続き、老いも若きも男衆の目は日本の伝統芸能を素通りした。

3年前は懸命に笛を吹く姿がテレビに映り、友人は感動で涙し、家人に怪しまれた・・・と言う。
4年前初めて本場徳島に行き、踊りの渦に踏み込む。
5年前に物珍しさから連に参加。

「明日は午後からお天気ですって」と、テレビを観ていた娘の声。ふと我に返って顔を見やる。冷やかしの表情の奥に慈しみの色がある。いつから娘に労わられるようになったのだろう。
衣装をたたみカバンに詰めポンと両手で叩く。

「よし、準備完了」
明日は神戸祭り。

新米パパ奮闘記〜
1歳を過ぎて

尾藤唯之(平4理工修)

 

早いもので昨年3月に生まれた長女唯子(ユイコ)も1歳となりました。最近は歩き始め、目が離せません。先日もパパとのお散歩の時、少し歩きたがるので下におろすと、トコトコとコンビニの中に入っていってパンをつかんでしまいました。しかたなく買う羽目に・・・あとでおいしそうに食べていました。

こんな調子なら二十歳くらいになったとき娘にせがまれるまま、洋服などをドンドン買ってしまう甘いお父さんになるかなと今から心配しました。そのころは一緒にお散歩に行ってくれないかな? 

こんな元気いっぱいの娘ですが今年のGWに突発性発疹で39.5度の高熱を出しました。  はじめてのことだけに妻と二人おろおろしていました。でも本人は発熱にもかかわらず元気に走り回り、お医者様は平気だと言ってたのが心強かったです。 1週間ほどで完治し今は元気になりました。

「奇妙な日本語」

樫尾観蔵(昭38法)

小生も歳をとったせいか、最近の音楽や服装の流行り、言葉づかいの風潮についていけなくなりつつあるようだ。その中でも、昨今のマスコミや若者の話しコトバでよく耳にする「奇妙な日本語」について、クラブのみなさんにご意見を伺う次第。

以下の例は、最近読んだ中国語学者・高島俊男氏のエッセイからの借用です。

<じゃないですか> 最近よく聞く表現だが、何かおしつけがましく聞こえませんか?<あげる> 自分の子供におもちゃをあげる!? は敬語としておかしい。ヤルといえばいい。<いやす、またはいやし>、またよく似た表現で<ふれあい>、<いのちとくらし>、<(地球に)やさしい>などの安易な使用に抵抗感があります。おなじく<元気をもらう>なども流行りのようですね。

その他でも嫌いなのが、<〜の方(ほう)>を乱発するくせや何でも短縮する日英チャンポンの略語など、日本語の乱れが気になってしかたがない昨今です。

みなさんは、如何お考えでしょうか?

2002年5月号掲載

≪遠征ゴルフ参戦記≫

横田 洋子(昭49 文)

東京三田倶楽部との第1回東西対抗ゴルフコンペが、4月9日霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催。前夜は帝国ホテルの東京三田倶楽部に両メンバーが集合。初対面とは思えぬ盛り上がりの中、午後11時まで美酒と美対談に酔った楽しい前夜祭となりました。

翌9日、新緑鮮やかな美しい霞ヶ関C.C.で総勢20名(男性17名・女性3名)の東西対抗戦が繰り広げられました。名門コースに歓喜する人、名物バンカーに泣かされた人・・・。

八重桜が咲き、小鳥のさえずりが聞こえる霞ヶ関C.C.は女神か、はたまた悪魔の抱擁か?
女神に抱かれ優勝の美酒に酔われたのは東京三田倶楽部の瀧口さん!上位4名による東西対抗も東の勝利となり、神戸のメンバーは次回勝利奪回を誓って泣く泣く帰路に着いた次第です。
第2回東西対抗戦は神戸に場所を移します。


〜〜慶早ゴルフ対抗戦〜〜

森本 泰暢(昭60法)



優勝カップは今年もわが手に!!

4月12日(金曜日) 慶早ゴルフコンペが廣野ゴルフ倶楽部にて開催されました。
神戸早稲田倶楽部より木下会長をはじめ6名の参加を頂き、当倶楽部からは14名が参加し、絶好のコンディションのなか、プレーと懇親会で大いに盛り上がりました。

対抗競技は各倶楽部の上位5名によるネット合計で競われ、結果は8ストローク差で、神戸慶應倶楽部が勝利致しました。

個人戦では神戸早稲田倶楽部 木下会長が昨年に引き続き優勝され、2位は神戸慶應倶楽部の藤木康信さん、3位も神戸慶應倶楽部の西脇良一さん(昭30法))が入賞されました。

「先祖のお陰」

浦上忠文(昭44政)

皆さんは、なぜ慶應義塾に学ばれたのでしょうか。私には、はっきりとした理由があります。
郷土の力です。祖父、父の力です。

私が生まれた疎開先は、岡山の足守という古い陣屋町で、福沢諭吉が学んだ「適塾」の緒方洪庵の生誕地であります。

祖父は医師で、昭和2年に洪庵誕生の地に石碑を建てました。当日は、小さな足守の町に、塾長や京大総長が来られたそうです。大学生だった父は、「洪庵は世界的な人物です」という塾長のあいさつを聞き、そんな偉人を紹介する本が一冊もないことを、郷土の人間として申しわけなく思ったそうです。そこで一念発起して、昭和19年に「適塾の人々」という本を著しました。後に「適塾」研究のテキストになったそうです。

戦後、父は、毎日新聞編集の仕事をやりながら、「若き日の福沢諭吉」という少年本も著しています。幼い頃「洪庵さんのような偉い人になれ」と、祖父に言われ続け、謹んで父の著書を読んだ少年に、いったい「慶應義塾」以外のどこで学べというのか・・・。

というわけで、わが家の男3人兄弟は、みんな「塾」に学んだのであります。
「洪庵、諭吉プラス父祖パワー」が、今日も、私のエネルギー源です。

2002年4月号掲載

ワンダーランドのタイツアー

樫根みづえ(昭41・政)

2週間前に関西婦人三田会の仲間4人でタイ旅行に行って来た。ツアーは私達4人だけで、まるで運転手とガイド付きの個人旅行と云った贅沢気分を味わえた。

チェンマイとバンコクと各2日ずつ連泊したが雰囲気がまるで違う。元々は、別々の王朝が
20世紀初頭に統一されたと聞けば合点がいく。バンコクは、近代的な高層ビルと王宮や壮麗な王室の守護寺院が共存し、まさに首都にふさわしい賑わいに満ちていた。チェンマイはバンコクに次ぐ都市ではあるが、濠と城壁に囲まれた旧市内、そこから続く新市内、幾多の遺跡、郊外の大自然等々、かつての王朝の首都の面影の残る落ち着いた街であった。

この二都市だけでなく、スコタイ、アユタヤも訪ねた。かつての栄華を極めた両王朝を偲ばせる煌めく寺院、朽ちた仏像、数多くの遺跡等を見ていると、言うに言われぬ感動を覚えた。ライトアップのアユタヤ遺跡、タイ料理、象の騎乗、伝統工芸、ナイトバザール、人々の優しい微笑みと表情等々思い出はつきない。

現代といにしえが混在するこの国を又、ぜひ訪れてみたい。

「世界を動かす日本の薬」
−築地書館−

岡本彰祐(昭 16・医) 編著

岡本会員からの投稿に基づき、『慶應義塾醫学部新聞』(2002年2月20日)に掲載された書評
を抜粋しながら上掲書を紹介します。

本書の第T部で岡本氏は次のように主張する。
「研究には独自の高い目標を意識した方法論が基本的に重要である。とくにテーマの選択は「流行の波」にひきずられないように警戒する必要がある。「流行」とは何か。長く停滞していた分野に突然ブーム的に研究者の集中が見られる。そのテーマを扱う会場に人があふれる。討論が白熱化する。これを「研究の流行」と呼ぶ。

しかし、この「流行的研究」は、科学的所有権(いわゆる国際特許)からみると、追試研究の日本の研究では科学的所有権を主張しにくく、有効な特許を得ることはほとんど不可能である。
日本の学者の為すべきことは、流行を追うのではなく、自ら流行を創ることにある。福澤諭吉は、「旧きを創る」という方向性こそ見直すべきであるという。そこにこそ大学や会社の運命を左右する問題がある。」

書評で、五島雄一郎東海大名誉教授(昭21・医)が「1947年以来、止血・血栓薬開発の先頭に立ち、岡本先生を中心として産学協同で、国際水準を抜くこと、流行の研究を避けること、医学に役立つ薬を見つけること、という三点を中心に研究が進められた経過が記述されている。T部〜W部で構成され50年余の研究で三種の新薬を世界に送り出したその記録であり輝かしい結果の記録である。」と評されているがまさに「慶應医学」ここにあり、と感ぜさせられる書である。

3月例会で道免会員が講演の中で述べられた「慶應医学」が内包する「社会福祉に貢献する、真摯な医学」の一面が読みとれる本ではないでしょうか。

(八巻 記)

「世界を動かす日本の薬」は倶楽部ル−ムにありますので随時お読み下さい。

2002年3月号掲載

「趣味のすすめ」
 ・・・今からこれから

五代友和(昭37・商)

 山あり谷ありの人生、とりわけ今の社会は政治も経済も或いは一般社会の諸問題も課題が多すぎる。
その荒波にもまれる小舟と言おうか、木の葉とでもいうのか、人間一人一人の存在は小さいかも知れない。
何千万年、何億年かかって光がやっと地球にと どく星たちのことなど考えていると、人間の一生なんてほんまにちっぽけなもの。でも一人一人にとっての人生は夫々にとって本当に大きい。
苦あれば楽あり、悲喜こもごも、そんな人生の中で安らぎや潤いを与えてくれるのが「趣味」でしょう。
中でもその楽しみの間、他のことを全て忘れることの出来る趣味を持つかどうかはその人の人生を大きく変えてゆく。
さあ、皆さん!今からこれから!! 50・60の手習いも遅くない。 野外での趣味を一つと、屋内での趣味を一つ持って、いろんな人達と出会い、語り合い、小さい人生を大きく生きようではありませんか!
 神戸慶應倶楽部にも今や同好会花ざかり とりあえず、何でも良いから始めましょう。 そして、向上心を持つ人間に老いは来ないと信じて元気に楽しく生きたいものです。

後半を生きる

青戸 統子(昭和29・文)

 夫はバレエと、オペラを見るのが嫌いだった。あんな□□△△○○に恋だの命が捨てられるか! 雨あられの放送禁止用語も無理もない頃だった。その彼が威勢よく天国へ駆け登った後、どん底の私に友人が現在のオペラを見せてくれた。その抜けるような輝く声、美しい容姿と豊かな演技・・・  暗い壁は崩れ落ち、音楽の花園を蝶のように飛び回った。熟年の過ごし方というアンケートに書いた事から、日経の夕刊に写真入りで紹介された事もあったが、今は落ちついて姑の世話もあり、おとなしくしている。
 しかし、この豊かな喜びを可愛い後輩達にどうしても伝えたく、3年前にKさんのお宅で勉強会と称して、LDで独断と偏見の解説付きでダイジェストとして見せた。以来、次第に要望高まり、昼食とティータイムをはさんで、全幕通しで見たうえに、他のバージョン例えば、カルメン最期の場面をドミンゴ、カレーラス、シコフと較べたり、アイーダの凱旋の場を、メトロポリタンの豪華絢爛、コヴェントガーデンのそれ、ヴェローナの野外劇場のと、演出・装置の多様さを見せたりする。 2・3日前のこの日、一段落してオペラにまつわる話や、互いの旅の情報交換で賑やかな中、突然ろーそくをやけに沢山つけたケーキと全員の♪Happy Birthday To You♪の歌声に包まれた。驚きにとびきり嬉しい一日だった。

2002年2月号掲載

世界がもし100人の村だったら

福井 有(昭49商)

 「世界には63億人の人がいますが、もしそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。61人がアジア人です。13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人・・・(でも世界の)すべての富のうち、6人が59%を持っていて、すべてがアメリカ合衆国の人です・・・」
 これはドイツ人のライポルト氏が2001年に国際友情週間のメッセージとしてインターネットに流したものが世界中に広まった電子民話(ネット・フォークロア)だ。
 しかし悪質なチェーンメールとは違い不快感はない。それどころか不思議なパワーさえ感じるメッセージだ。
 オリジナルの世界の村は1000人だったそうだが、途中でイギリス人により100人に変更され、より広い人たちに分かりやすくなった。さらに昨年9月11日のテロ事件発生以降、急速に伝播した。
 メッセージの後半は「もしあなたが今朝、目覚めた時健康だと感じる事が出来たなら・・・あなたは今週生き残ることができないであろう100万人の人たちより恵まれています。」と続く。  
今日アフガニスタン復興支援国際会議が東京で始まった。このメッセージを一人でも多くの日本の若者に伝えたいと再び考えさせられた。

私のKOBEライフ

菅谷貴子(平成7法)


  昨年4月から司法修習生として、埼玉県和光市で前期修習を終え、7月から実務修習として神戸地方裁判所に配属になりました。  この実務修習地の配属は,希望を一応考慮し決定されるのですが、毎年1000人もの修習生がいることから、なかなか希望通りにはならず、毎年落ち込みを隠せない人も数多く出るのですが、私は運良く第一希望の神戸に配属されることになりました。
 私は関東出身で関西に住んだことはなかったのですが、神戸で洗練されたおしゃれな生活を送りたい、実家を離れてみたいという修習とはほとんど関係のない事情で神戸を迷わず希望しました。実際に、こちらでの生活は、海と山が近く自然に囲まれ、四季を肌で感じることが出来るとともに、憧れだった神戸ならではのすばらしい夜景を堪能することもでき、毎日本当に生活を楽しんでいます。
 また、食べ物も大変おいしく、特に、パンとケーキがお気に入りです! 実務修習では弁護士事務所にお世話になるのですが、その担当弁護士をしていただいている塾の先輩の阪本先生や、同じく先輩の堺先生、荒木先生には色々な場所に連れて行っていただいており、あまりの美味しさについつい食べ過ぎてしまい、神戸に来た時と体型が変わってしまっています。
 昨12月に弁護修習を終え、裁判所、検察庁を順次回ることになりますが、仕事だけでなく神戸を十二分に満喫して、残りの6ヶ月を過ごしたいと思っています。

初の謡曲創作
古典の側から現代を遠望


多田智満子さん

<2002.1.8読売新聞夕刊より抜粋> 詩人の多田智満子さん(昭30文)

古典の側から現代を遠望  初めて本格的に創作した謡曲「乙女山姥」を文芸誌「すばる」1月号に発表。ギリシャやローマ、エジプトなど西洋古代文明の深い知識を基に現代誌を紡ぎだしてきた多田さんが、新作能という異なるジャンルに挑戦。 「古いものに興味があります。新しいものはすぐ古びるけれど、古いものは決して色あせないから」という多田さんは、テーマを「山姥」に決めて、一気に書き上げた。すでに能楽関係者から上演の打診も来ている。