#2



※写真をクリックすると詳しい説明が表示されます。

神戸空襲で倶楽部ルームを焼失し、
昭和28年「朝日ビル」へ移転

 昭和20年(1945)8月15日、ポツダム宣言受諾によって日本は敗戦を迎えた。相次ぐ大空襲に見舞われて市中は焼け野原となり、50万人近い市民が焼け出された神戸だが、その復興の歩みは速かった。
 元町通6丁目にあった倶楽部ルームは、3月17日の神戸大空襲で焼失した。戦後、元町1丁目の神港スポーツ用品店2階などを経て、昭和28年、現中央区浪花町にある神戸朝日ビル2階(後に5階)に倶楽部ルームを移転した。このビルはもともと神戸証券取引所の建物であった。取引所が閉鎖され空いたままになっていたのを、この年、朝日ビルジングが借り受け、栄町通 にあった傘下の映画館「神戸ABC」を「神戸朝日会館」と名を変えて移転させた。
 昭和30年からは、新酒が上がる2月の「酒造見学」が恒例行事となっている。また、夏のビールパーティが始まったのも同じ年で、33年から35年にかけては、毎年小型船をチャーターして神戸港を一周しながら船上ビールパーティを楽しんだ。当時のビールパーティ開催案内(ハガキ)は、こんな文面 であった。
 「全く暑くてやり切れない! こんな時、ビールでものんで、ひとつ暑さばらしをやっては如何!? とも角、狭いながらも楽しいクラブで、イッチョヤラカソウ!と言うわけ。是非、みなさん、集まってもらいたいもんで……殊に若きOBに」
 そのほか、講演会、花見、麻雀大会、レコードコンサート、ダンスパーティ、運動会、スキー教室……と企画を練っては倶楽部に集う密な交流が始まった。また昭和36年には男性一色であった倶楽部に、初の女性会員(森本周子さん)が誕生し、以後入会が盛んになった。




強烈な個性で会員を惹きつけた
戦後25年の「濱根会長」時代

 昭和44年(1969)、濱根康夫氏が小曽根真造氏に代わって会長の座に就いた。濱根氏はその後平成3年(1991)まで、実に22年間の長期にわたって会長職を務め、その豪放磊落な人柄と厚い人望によって神戸慶應倶楽部を先導していった。社中の精神を強烈な個性により神戸の地に根づかせた人物であった。
 昭和57年、この濱根氏が慶應義塾評議員の候補者に推されたため、当時の役員、柳生貫之助氏を中心とする倶楽部会員が懸命に選挙運動を展開した。7月からは選挙対策のための役員会や決起大会、対策会議を開くなど万全の態勢を整えた。その甲斐あって、10月の選挙で見事当選を果 たした。選挙運動は新人会員の獲得も兼ね、倶楽部の活性化にも大きく貢献した。濱根氏は任期が終わった4年後の昭和61年にも評議員に立候補し、再び当選を果 たす。




初めて神戸の地で開催した関西合同三田会
 濱根氏が評議員に初当選した直後の昭和57年(1982)11月には、関西合同三田会が初めて神戸の地で開催された。神戸慶應倶楽部と姫路慶應倶楽部が担当し、神戸ポートピアホテルが会場となった。
 目玉は宝塚月組のメンバーによるショー「慶應125周年を讃えて」と、倶楽部の財源確保のために発案され神戸名物となっていたオークション。『三田評論』にはオークションが次のように紹介された。
 「食事が一段落したころ、神戸慶應倶楽部名物のオークションが始まり、赤シャツ、腹巻、トレパン姿で登場した李文振君(神戸)に盛んな拍手。会員の持ち寄った洋酒、タオル、ネクタイ、銅器などを、巧みな話術で競りにかけ、思いがけぬ 安値がついたり高値がついたり、爆笑の続く中、品物は飛ぶように売れてゆく。最前列にいた宝塚のお嬢さんには無料でバッグを落札するなど慶應ボーイの面 目躍如たるところである。とうとう最後には台を叩いての大叩き売りとなった」(同誌・昭和58年2月号)
<< 戻る 次へ>>