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玉 突き台、バーまであった
戦前の神戸慶應倶楽部

 明治中期には、すでに神戸在住の塾員による同窓会が存在していた。当時、神戸に在住していた矢田績氏が明治21年(1888)、福澤諭吉先生に同窓会の情況を書簡で報告し、これに対し、先生が実業の道で活躍する在神戸の塾員を激励する返書をしたためている。また、31年に発行された『慶應義塾学報』創刊号には、地方で義塾への寄付募集事務に携わる地方維持委員の決定が報じられ、兵庫県之部(神戸)に7人が名を連ねている。
 こうした明治期以来の塾員の組織活動を母体として「神戸慶應倶楽部」が設立されたのは、昭和4年(1929)のことである。同じ頃に「神戸三田會」も設立されたが、その後「神戸慶應倶楽部」に統合され、昭和9年には神戸市元町通 6丁目のビル2階に倶楽部ルームを構えている。専属の事務員を置き、玉突き台3台やバーカウンターがあるなど豪奢な雰囲気に包まれていた。ちなみに倶楽部ルームを持つ三田会は、現在も全国で4組織しかない。
 神戸では、明治中頃より近代企業が次々と操業を開始し、造船、製鉄、紡績、ゴム、マッチ、貿易、海運などの産業が隆盛を極めていた。酒造や真珠加工などの地場産業も栄え、この頃は神戸経済の黄金期であった。当時は鐘淵紡績(現鐘紡)の津田信吾社長をはじめとする紡績関係者や多数の造船・海運関係者ら有力会員が多額の寄付を行い、倶楽部の運営を経済的に支えていた。
 衆議院議長、外相などを歴任した桜内義雄氏は、昭和10年から13年にかけて鐘紡・兵庫工場に勤めていた。後年、当時の慶應倶楽部での様子を次のように回想している。
 「元町通りには慶應倶楽部があり、そこで玉突きやマージャンもやれたし、バーもあって安く飲んだり、食ったりできた。そこを拠点に元町の裏通 りを闊歩してあちこち飲み歩いたものである。慶應倶楽部には、歴代の倶楽部会長の写 真が掲げられており、津田(鐘紡)社長の写真もあった。私は一句作って社長の写 真の下に張っておいた。『月給は安くとも金棒(カネボウ)とはこれいかに−−安い煙草をゴールデンバットというがごとし』。翌日、人事課長から呼び出しを受けた。『お前の仕業だろう。毎日毎日、酒を飲んで慶應倶楽部でオダをあげているのはおまえだ。実にけしからん』とえらい剣幕だった」(日本経済新聞「私の履歴書」平成6年1月7日)
 また当時は、日本一の強豪だった庭球部をはじめ、ラグビー部、野球部、オリンピック出場選手などの塾生が帰省すると、必ず倶楽部に招き、酒食のもてなしをしていた。

毎月例会を開き、家族を交えて
親睦を深める戦前からの伝統

 三田会と慶應倶楽部、同窓会組織には二つの名称があるが、倶楽部には会員ばかりか家族も交えて集うという開放的なイメージがある。事実、設立当初から神戸慶應倶楽部では家族を伴うパーティや催しが活発であった。この慣習は今も続き、毎月開かれる例会の拡大版として、夏季家族例会やクリスマス家族例会の恒例開催へとつながっている。
 慶早野球戦も神戸の特色である。戦前から神戸早稲田倶楽部とも親密な関係があり、昭和12年(1937)7月、「第1回慶早野球戦」が神戸市民球場で開かれ、翌13年からは神戸市の年中行事(春秋の2回)となり、16年春の第9回まで続けられた。毎回熱戦が繰り広げられ、神戸全体を沸かせるほど盛り上がったが、以後は太平洋戦争で中止となる。しかし、昭和41年には戦後第1回「慶早野球大会」として復活した。

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