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社 中 の 心


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市居 嘉雄
(昭和29年経卒)
2003年7月号〜10月号連載

第1話

神戸の鉄道史をたどれば(その一)
―官営鉄道開通と山陽鉄道会社の設立―

第2話

神戸の鉄道史をたどれば (その二)
―山陽鉄道の新機軸と阪神電車の登場―

第3話

第3話 神戸の鉄道史をたどれば (その三)
―市電・山陽電車・神有電車の開業―

第4話
(最終話)

神戸の鉄道史をたどれば (その四)
―阪急電車の市内乗り入れと各鉄道の伸展―

7月号

 

神戸の鉄道史をたどれば(その一)
―官営鉄道開通と山陽鉄道会社の設立―

慶応二年(一八六六)に福澤先生は『西洋事情』を著わされた。この中の「蒸気車」の項で、鉄道の由来・仕組み・効用などを啓蒙的に詳述された。

それから三年後の明治二年(一八六九)の廟議で、東京〜京都間などの鉄道建設を決めたが、この計画には当時激しい反対もあった。しかし、同五年には早くも新橋〜横浜間が日本初の官営鉄道として開業した。次いで大阪〜神戸間が同七年五月十一日に開業し、この日は見物客が集まってごった返したという。当時の三ノ宮駅は今の元町駅の場所にあり、神戸駅から僅か一・五キロほどの寂しいところであったが、居留地が近かったため設けられたのであろう。

大阪までの途中駅は初め旧三ノ宮と西宮だけで、翌月に住吉と神埼(現尼崎)が開業した。神戸〜旧三ノ宮間が当初複線、他の区間は単線で、すべて地上に敷設された。天井川の石屋川、住吉川、芦屋川は川底トンネルを掘った(石屋川は日本初の川底トンネル)。 

神戸駅を兵庫港の東にあった福原遊郭を含む約七万坪の土地に建設する際、土地の大半は兵庫の富豪が寄贈した。当初の神戸駅舎はモダンなつくりの木造で、明治二十二年に神戸〜新橋間の東海道線が開通した時には、装いも新たに立派な駅舎となった。神戸〜大阪間の所要時間は一時間十分、料金は上等一円、中等七十銭、下等四十銭。米が一キロ五銭の時代のことである。

明治二十年ごろになると、日本中に私鉄設立ブームが起きてきて、同二十一年一月に山陽鉄道会社が設立された。現在のJR西日本山陽本線の前身である。この鉄道は最初神戸〜姫路間として同十九年に出願されたが、政府の要望を受け入れて神戸〜馬関(赤間関ともいった、現下関)間の幹線鉄道に計画を変更した。

兵庫〜明石間の開業が同二十一年十一月、神戸〜兵庫間は翌年九月に開業して東海道線とつながった。本社は兵庫駅前に置かれた。初代社長には三十四歳の中上川彦次郎氏が就任した。中上川氏は安政元年(一八五四)今の大分県の生まれ。母は福澤先生の姉さんだから、先生の甥に当たる。明治二年慶應義塾に学び、英国に留学した。帰国後は政府に仕官したものの、同十四年の政変で官界を去り、時事新報社長となった。その在任中に三菱を通じ山陽鉄道の社長就任を要請され、井上馨・藤田傅三郎両氏の推せんもあり、福澤先生の了承をえてこれを受けたという。海外で身につけた合理的手法で山陽鉄道の経営に当たった。後年には三井財閥の近代化に尽力した。

また、当初の常議員(役員)の中に荘田平五郎氏の名が見える。弘化四年(一八四七)今の大分県出身で、明治三年慶應義塾に入り、のち教授となった。三菱の支配人として三菱系各社の創立に参画し、重工業育成や丸の内街開発の功労者である。

福澤先生は米国で土木工学を専攻した次男捨次郎氏もやがて山陽鉄道に入社させており、それほど同社への関心が強かったといえる。


8月号

第3話 神戸の鉄道史をたどれば (その二)
 ―山陽鉄道の新機軸と阪神電車の登場―

山陽鉄道会社の中上川社長の戦略は斬新だった。当時の私鉄経営者は一般に鉄道省の古手官吏を引き取り、万事官鉄におもねっていたが、中上川氏は社員のレベルを高めるために外国から専門書を取り寄せ、車両や備品も良質な新品を注文した。

今まで、「いずれへ参るか、釣り銭の要らぬように用意いたせ」という式の官鉄に慣れた一般庶民は「どうぞお乗り下さい」というサービス満点の山陽方式に驚かされた。姫路へ開通後は駅弁を発売したが、それまでのアンパンや握り飯などと違って、カマボコ、玉子焼き、かしわ、鯛の塩焼きに奈良漬、米飯が経木の折箱に入っているという本格的な弁当であった。なお、明治二十三年、兵庫駅から和田岬線が貨物線として開業した。

明治二十四年に中上川氏が社長を辞任した後、同二十七年には山陽鉄道の経営陣へ牛場卓蔵氏が総支配
人として加わった。同氏は嘉永三年(一八五〇)今の三重県に生まれ、兵庫県の牛場家の養子となった。明治五年に慶應義塾に入学し三田山上の雄弁家として有名になった。卒業後は兵庫県庁や大蔵省などを経て朝鮮内部の改革のため赴任し、衆議院議員となるなど活躍した。山陽鉄道の経営に従事するや鉄道の大改良を図って、同社は全国の鉄道の模範と目されるようになる。

食堂車やダブルベッド付きの一等寝台車を連結させたり、同三十六年には神戸〜下関間を十一時間二十分で結ぶ特急列車を走らせた。列車ボーイや赤帽の採用、通学切符や狩猟切符の割引など、新機軸は枚挙にいとまないほどであった

明治三十九年(一九〇六)、鉄道国有法の公布によって山陽鉄道は他の私鉄と共に国に買収されたが、同社が官鉄のその後の経営姿勢に大きな影響を与えたに違いない。因みに山陽鉄道のレール幅は官鉄と同じ106・7センチの狭軌である。その前年の明治三十八年四月十二日、大阪や神戸など地元有力者を発起人として、紆余曲折を経て設立されていた阪神電気鉄道会社が、大阪出入橋と神戸(雲井通八丁目、現JR三ノ宮駅前)間を開業した。レール幅は143・5センチの標準軌を採用した。初代社長には元日銀理事で初代大支店長であった外山脩造氏が明治三十二年
から就任していた。同氏は天保十三年(一八四二)
今の新潟県の生まれで、明治二年慶應義塾に学んだ(のち転校)人物である。外山社長は人材を適材適所に配置した。

同社は阪神間の街道沿いの各町村の中心近くを32ヶ所もの中間駅を設置して、当初は阪神間を一時間半で結び、遂次スピードアップを図った。ただ、当時の軌道条例では路面電車を想定していたので、同社では全線のうち御影付近と三宮手前の計5キロ弱を道路軌道併用区間として許可を取り付けた。

この阪神電車の登場は、市街地から離れたところを通り、しかも駅数も少ない官鉄に打撃を与えた。更に阪神は大正元年  (一九一二)十一月に雲井通八丁目から約二百メートル南の滝道駅へ延長した。現在の国際会館の角に当たる。滝道とは、布引の滝から流れた旧生田川の川筋のことで、現在のフラワーロードである。

9月号

第3話 神戸の鉄道史をたどれば (その三)
―市電・山陽電車・神有電車の開業―

明治四十三年(一九一〇)四月に神戸市電の前身である神戸電気鉄道が営業を開始した。市街地の人口が約四十一万の時代である。まず春日野道―兵庫駅前間が開通した。143・5センチの標準軌である。大正二年にこの鉄道会社は神戸電灯と合併して神戸電気会社となり、滝道―熊内一丁目間の布引線のあと兵庫線や平野線も開通した。翌年から神戸電灯が経営し、大正六年(一九一七)八月からは神戸市電気局が運営に当たり市電となった。

一方、眼を神戸の西部に転じると、兵庫電気軌道会社が兵庫―須磨間を明治四十三年に開業した。営業不振のために当初計画の明石への開通は、七年後の大正六年になってからであった。兵庫駅は省線兵庫駅の北側に、そして明石駅は省線明石駅前から南折し明石港の近くに設けられた。また、
舞子付近では松林の風致保存のため線路を蛇行させた。

明石―姫時間では複数の鉄道が競願と統合を繰り返す中で、神戸姫路電気鉄道が大正十二年(一九二三)八月に旅客営業を開始した。この神姫電鉄は兵庫電軌が路面電車スタイルであるのと異なり、専用軌道を走った。両社の沿線は山陽本線沿線よりも人口が多く、駅の数も数倍あったから、速度では劣るものの乗客には便利になったといえる。

兵庫電軌と神姫電鉄が結びつくのは、宇治川電気(関西電力の前身)の働きかけによる。第一次大戦後の不況到来で電力需要が低迷し、電力会社は大口需要者の電鉄会社を傘下に引き込もうと努力していた。かくて大正十五年に両社はそれぞれ宇治川電気と合併契約し、しばらく「宇治電」の愛称で呼ばれた。両社はいずれも標準軌ながら設備・電圧など種々のくい違いを解決せねばならず、兵庫―姫路間の直通運転が開始されたのは昭和三年八月になってからである。

神戸市を起終点とする民営鉄道が相互乗り入れして連絡する構想は、古く大正時代に阪神電車が市電に乗り入れを計画したときからの夢であり、山陽電鉄も兵庫電軌の時
代、大正八年から地下鉄による連絡計画を持っていた。このような夢が実現したのはずっと後世になってからのことである。

次に北部の有馬方面へのルートのことに移る。明治三十九年(一九〇六)に阪急電鉄の前身たる箕面有馬電気軌道は大阪梅田―宝塚―有馬間の特許を得たが、結局宝塚までとなった。迂回路だが官鉄福知山線の三田から有馬線が大正四年に開通した(昭和十八年休業)。
大正十二年に免許を得た神戸有馬電気鉄道は神有電車の愛称で呼ばれ、106・7センチの狭軌であった。当初のルートは天王越の有馬街道を経て上三条町をターミナルとする計画であったが、急勾配による難工事が予想されたため取止め、菊水山を迂回して湊川の旧河川地にターミナルを設けることにした。

同社は金融恐慌下に割高な工事費ながら、湊川―電鉄有馬(現有馬温泉)間および唐櫃(現有馬口)―三田間を昭和三年(一九二八)に開通にこぎつけた。しかし、当時この沿線は人口急増の見込みが薄く、しばらくは経営の苦しい状態が続いた。
六甲ケーブルが六甲越有馬鉄道の社名により昭和七年に開業した。

10月号

第4話 神戸の鉄道史をたどれば (その四)
―阪急電車の市内乗り入れと各鉄道の伸展―

かねてから神戸方面への進出を目論んでいた箕面有馬電気軌道(大正七年に阪神急行電鉄と改称)は、大正五年(一九一六)に灘循環電気軌道(布引を起点とし山手を通過して西宮に至る)の敷設権を、阪神電鉄との間のかけ引きのうちに取得して傘下に収め、神戸東部の上筒井までを開通させたのは大正九年七月のことである。現王子公園駅の西、赤十字血液センターの辺りが終点で、三宮からの市電と連絡させた。阪神に比べて駅の数が少ない阪急神戸線の電車を「綺麗で早うてガラアキで眺めの良い涼しい電車」と宣伝した。レール幅は標準軌である。

ここで阪急電車の創業者というべき小林一三氏について触れておきたい。
小林氏は明治六年年(一八七三)山梨(一八七三)山梨県に生まれ、同二十五年慶應義塾を卒業後、三井銀行に十四年間勤務した。家族と共に大阪に転居してから阪鶴鉄道(現JR福知山線の前身)の監査役に送り込まれ、三十五歳で箕面有馬電気軌道の追加発起人となって専務取締役に就任した。動物園、野球場、百貨店、宝塚少女歌劇開設のほか、沿線の住宅地開発にも努めた。阪神急行電鉄(阪急)の社長に就任したのは昭和二年五十五歳になってからである。

阪神国道が昭和二年に27m拡幅延長したのに合わせて、阪神電鉄は阪神国道電車をわずか半年間の工事で東神戸(脇浜)―大阪野田間を開通させた。また、昭和八年(一九三三)になって阪神電車はようやく路面区間を廃止し、岩屋―三宮間の高架化計画は神戸市の反対により地下線として開通させた。これで梅田―三宮間が特急で35分となった。

省線は昭和四年灘―兵庫間の高架化によって、三ノ宮駅を東方へ約八百m移設した。翌五年十月一日から神戸―東京間に超特急「燕」号が九時間で走り始めたが、当時としては画期的なことであった。また、省線は同九年から十二年にかけて複々線の連続高架と電化が完成し、元の三ノ宮駅跡を元町駅として復活させた。京阪神間には急行電車を走らせて、大阪―三ノ宮間は24分のスピードを誇った。

一方、阪急電車は上筒井が終点では勝負にならないとして、西灘駅(現王子公園駅)付近から三宮駅へ高架新線を昭和十一年(一九三六)に開通させ、特急25分をアピールして対抗した。

阪急が三宮へ乗り入れした年、阪神は地下線を更に元町まで延長した。阪急は西灘―上筒井間の支線を同十五年に廃止した。念のため記すと、JRは三ノ宮、阪神と阪急は三宮が駅名となって今日に至っている。

ところで、前述の如く兵庫―姫路間の直通運転を果たした宇治川電気の電鉄部は、大正末期からの不況により、昭和八年に電鉄部門を直営からはずし、電鉄会社として分離した。やがて電力国家管理の時代に入り、同十七年には宇治川電気は解散となって、山陽電鉄は文字通り独立を実現したのである。片や神戸有馬電鉄では、昭和十一年に系列会社の三木電鉄を設立(戦後に合併)、印南野台地への進出を図った。

昭和十三年七月五日に起きた阪神大水害(谷崎潤一郎の小説『細雪』に出てくる)で各鉄道は甚大な損害を被った。その頃からわが国は次第に戦時色を強めつつあったのである。

(最終回)