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社 中 の 心


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社中の心 目次へ


浦上 忠文
(昭44政)
2007年2月号〜5月号

第1話

 「緒方洪庵」に学ぶこと(その1)

第2話

 「緒方洪庵」に学ぶこと(その2)

第3話

 「緒方洪庵」に学ぶこと(その3)

第4話

 「緒方洪庵」に学ぶこと(その3)

2007年
2月号

「緒方洪庵」に学ぶこと (その一)

昭和四十年一月十日、福澤諭吉先生の誕生日。三田山上演説館において、わが父、浦上五六が、記念講演を行った。演題は「適塾と福澤諭吉」。講演料は、五千円。父は、それを私に渡しながら「これを、慶應の受験代にしなさい。学校に縁のあるお金やから、合格の可能性が高まるかもしれんで」と、ほほえんだ。

私は、東京都立戸山高校の三年生。塾の法学部政治学科に熱烈に憧れていた。父は、毎日新聞東京本社の編集局長だった。

なぜ、父が講演を行ったのか。それは、緒方洪庵の研究家だったからである。なぜ、緒方洪庵の研究家だったのか。時は、昭和三年五月十七日にさかのぼらなければならない。

慶應義塾塾長林毅陸氏、京都帝大総長荒木寅三郎氏、緒方洪庵の子孫の方々が参列。それを眺めているわが父、浦上五六は二十歳。足守に生まれ、岡山一中、六高理乙を経て、東北帝大文学部の学生だった。

塾長が挨拶を述べた。
「洪庵の顕彰は、生誕地に記念碑を立てるだけでは、不十分である。もっと、日本的な規模で顕彰されるべきである。洪庵は、天下の偉人である」

塾長の言葉を聞いて、父は驚いた。驚いたと共にすまなさを覚えた。
「洪庵は、そんなに偉い人だったのか。天下の偉人、緒方洪庵が、世間ではそれほどまでに思われていない。それは郷土の後輩として、申しわけないではないか。せめて伝記を書いたら洪庵の名が世に広く知れ渡るのではないか」と、ひそかに決意したのだった。

昭和八年、父は、大阪毎日新聞に入社。整理部記者を務めながら、伝記の構想を練った。文献を集め、洪庵の孫、ひ孫の方たちの話を聞き、諭吉をはじめとする適塾書生たちの練成の日々に思いを巡らせながら、少しずつ筆を進めた。

昭和十八年十二月十五日。この日は、今も残っている適塾を、大阪市中央区北浜三丁目に、洪庵が移して百年の記念日だった。
「もう大阪は、日本は、無くなるかも知れない。だけど、またいつの日か日本再建に立ち上がる青年たちのために、適塾のことを、洪庵の思いを、諭吉の熱情を書き残して置かなければ」。厳しい戦火の中で報道を続けながら、使命感に筆は勢いを増した。

昭和十九年九月二十日。「適塾の人々」というA五版、三百頁を超える労作が遂に出版された。初版三千部。定価三円五拾銭。

あの除幕式から、十六年。七月にはサイパン島、八月にはグアム島が玉砕した秋のことだった。

(2005年11月号掲載)

 

(つづく)

2007年
3月号

「緒方洪庵」に学ぶこと (その二)

「適塾の人々」が出版されたあくる年、昭和二十年は、語るのもつらい一年だった。
三月に東京が大空襲を受け、八月には、広島と長崎に原爆が落とされた。広島の日の未明、父の住んでいた西宮市が、空襲を受けた。洪庵研究の、すべての資料は灰になった。

適塾は、度重なる大阪空襲に耐え、奇跡的に焼けないですんだ。
 「適塾の人々」は、後に適塾研究の基本テキストになったと聞いた。父の熱意は、間一髪、時代を超えることが出来たのだった。
あくる年、昭和二十一年四月。洪庵と同じ足守の地に、私は生を受けた。洪庵生誕地から百メートルほど東の、祖父宅浦上医院、一家の疎開先である。祖父は、洪庵生誕記念碑建立に走り回った人であった。郡の医師会長を務めていた。

洪庵生誕地は、幼時の遊び場だった。
兄たちに付いて、蝉取りやトンボ釣りに親しんだ。「洪庵さんとこに行っとったんか。おおきゅうなったら洪庵さんのような人になれるで」が、笑顔の祖母の口ぐせだった。

昭和二十五年五月。一家は、ようやく落ち着きを取り戻した大阪に移り住んだ。堂島にあった、毎日新聞の社宅である。直ぐそばの新聞社屋上の空では、伝書鳩が記事を運ぶ訓練を受けていた。北新地の路地や、中の島公園が遊び場だった。近くに適塾があった。時々、前を通った。兄たちが「ここが洪庵さんがおったとこやで」と、教えてくれた。緒方洪庵は、いつも私の傍らにいる偉人となった。

ここまでが、前置きである。これより本題に入る。

世のために尽くした人の一生ほど美しいものはない、と私は思う。

世のために尽くそう、と行動する人は、どういう考えを持つ人だろうか。それは、人から受けた感謝を忘れない人だろう。人から受けた恩をバネにして、世の中に恩返しをしようと思う人だろう。
少年時代から「適塾の人々」本に親しみ、長じて、洪庵の研究を深めるにつれ、洪庵は「恩返し」に生きた人々の代表選手であると確信したのである。

人生のお手本である。

洪庵は、幕末に近い千八百十年(文化七年)八月に、足守藩下級武士の三男に生まれた。 洪庵十三歳の秋、穏やかな純農村の町に、劇的な恐怖が襲ってきた。コレラである。あれよあれよと思うまもなく、どんな手当てもかいがなく、死骸の山を築いていく悲劇を前にして、洪庵のあわれみ深い心はゆすぶられた。ただ手をこまねいている医家たちのふがいなさを前にして、医の道こそ自分の歩む道であると、小さな体に強く誓ったのだった。

「勉強のためには、大阪へ出なくてはならない」父に申し出たが、父は「武士の子が・・・」と許さない。反対されればされるほど、医家志願の思いは、狂おしいほどわき上がってくる。もはや、ふつうの手段では及ばないと考えた洪庵は、決心した。

「大阪を目指す必死の決意の置手紙」を、そっと父の机上に置き、洪庵は、ただひとり、ひそやかに足守の地を離れた。


洪庵、十六歳の夏のことである。 

(2007年3月号掲載)

(つづく)

2007年
4月号

「緒方洪庵」に学ぶこと (その三)

若き洪庵の置手紙は、漢文で書かれている。
私の解釈による要旨はつぎのようなものである。

「この世に生を受けて十六年。何をなすこともなく過ごしてきて申しわけありません。この度、医学を学びたく思います。例え聖人でも賢人でも、病気になれば、どうしようもありません。病気を治す医師は尊い仕事です。人々を助ける仕事です。私は、もともと身体が弱く、武士には向いていません。三年前大阪に滞在した時から蘭方医学というものを知り医師の道を志しました。これより三年の時間を頂ければ、必ず立派な医師になれるように頑張ります。なにとぞお許し下さい。私の志を解って頂きたいです。三年間勉強して立派な医師になって、お父さんの喜ぶ顔が見たいです。」

胸を打つのは、すべての人のために尽くしたい、自分の欲するところを貫き通したいといういちずさである。父親に懸命に許しを乞う素直さと孝行心である。
庵は大阪に出て、足守藩の蔵屋敷に入る。しばらくして大阪に赴任してきた父親は、家出を深くとがめなかった。洪庵の揺るぎの無い志に心を打たれたのだった。

洪庵は、中天遊という学者が開いていた、蘭方医学の塾に入る。医学と共に、物理や化学も学んだ。後に、医家となった洪庵が開いた「適塾」が、医学だけを教えるのではなく、広く科学や兵学までも学ぶ塾であったのは、中天遊の影響であろう。

洪庵は四年に及び、そこにある書物のすべてを学んだ。
天遊は「この上は、原書について深く学ぶが良い」と、江戸の坪井信道への入塾を勧めた。坪井信道は、江戸第一の蘭方医学の大家だった。洪庵は二十一歳になっていた。

洪庵は坪井塾で学ぶかたわら、義眼を作ったり、写本をしたり、あんまに出たりした。父に学資を得ることが難しく、自ら働いてそれを補ったのである。
洪庵は破れた着物を着て、学び、働いた。
それを誰も笑わなかった。貧苦に耐えて一心に学ぶ洪庵は、塾の誰からも好かれていた。やがて塾頭になり、信道から長崎行きを勧められた。

直接オランダ人から学べる長崎は、蘭学を学ぶ者の憧れの地であった。
次の年、日本は大きな飢饉に襲われた。悪疫も流行した。大阪では、大塩平八郎の乱があった。

学問を追求することだけが本意でない洪庵の気持ちは揺れ動いた。「もはや長崎修行をしている場合ではない」と、洪庵は足守へ帰ることとした。医学の道に入って十二年。大阪、江戸、長崎での修業を経て、洪庵は二十八歳になっていた。

一国一藩の利害を超えて広く国民に奉仕する医学を職業にしたい望みの洪庵に、郷里足守の地は狭すぎた。そこで、大阪に出て開業することを決意した。天保九年(千八百三十九年)の春のことだった。

(2007年4月号掲載)

(つづく)

2007年
5月号

「緒方洪庵」に学ぶこと (その四)

洪庵開業の報が伝わると、長崎時代の同窓や江戸の書生たちが教えを乞いに来た。洪庵塾とも、緒方塾とも呼ばれる「適塾」の始まりである。

適塾の意味は「自分の適とすることを適とする」という意味から名づけられた。適とは、まっすぐに向かって行くとか、心にかなうという意味である。適塾は、他の制約を受けず、思いのままに勉強する自由の徒の集まりだった。福沢諭吉の「独立自尊」も、同じ意味である。

「適塾」には、やがて全国から蘭学を学ぶ熱意に燃えた若者たちが集まり始めた。適塾の姓名録には、遠く津軽や対馬の地の記録が見られる。江戸の書生が大阪に来ることはあっても、大阪から、わざわざ江戸に学びに行くものはないとうわさされるほど、適塾の人気は高まった。

洪庵は、中天遊という学者が開いていた、蘭方医学の塾に入る。医学と共に、物理や化学も学んだ。後に、医家となった洪庵が開いた「適塾」が、医学だけを教えるのではなく、広く科学や兵学までも学ぶ塾であったのは、中天遊の影響であろう。
医業も繁盛し、場所が手狭になり、地下鉄淀屋橋から徒歩二分の現存する適塾の場所に移転した。

おもしろい学校だった。入学試験はなく、ただ申し込めば入学が許された。学費は、月に米一斗五升。一人当たり一畳の居住空間と食費を入れての値段であるから、洪庵がいかに私財を塾に投じたかが解る。武士の子も町医者の子も農民の子も、いっさい平等だった。助け合い、かばいあいながら共同生活を行った。学問は、実力主義だった。洪庵は医家としても多忙を極めていたから、教えるのは、成績の良い塾生だった。

能力別に八クラスに分かれていた。ひとクラスは十五人前後。クラスで蘭書の訳読を行い三ヵ月上位を占めたものが上のクラスに進める仕組みになっていた。最上位のものを塾頭と呼んだ。

洪庵は、医業で得た金を惜しみなくつぎ込んで書生を助け、悲哀を共に泣き、喜びを共に分かち合った。

諭吉が腸チフスになった時のことである。洪庵四十七歳、諭吉二十三歳の春だった。

洪庵は、諭吉にこう言った。「私は、お前の病気を看てやる。しかし、薬を処方することは出来ない。なにぶんにも迷ってしまう。この薬あの薬と迷って、後悔するかもしれない。薬の処方は他の医師に頼む。そのつもりでいてくれ。」

後に、諭吉は、次のように書いた。
「緒方先生が私の病を看て、薬を処方するのに迷うというのは、わが子を治療するのに迷うのと同じことで、私を、家族のように思って頂いたことに感激しました。」

大病後の諭吉は、貧苦にあえいでいた。薬の一件の後、洪庵先生を親のように思い始めた諭吉は、何も隠すことはない、と、実情を打ち明けた。

洪庵は、苦学一筋の自分に恩情をかけてくれた江戸の坪井信道先生のことを思い出し、翻訳家という名目で、諭吉を学費の要らない食客生として雇うことにした。
乱暴者として名高かった諭吉が猛勉強を始めたのは、それからのことである。

「受けたことのすべてを恩返しする」「生まれてきたからには、人の役に立ちたい」というのが、少年時代からの洪庵の願いだった。洪庵は、多くの先生から学んだことを、いっそう輝かせて、諭吉をはじめ多くの若者たちにその炎を移し続けた。諭吉は、それをさらに輝かせて引き継いだ人間である。

塾社中の我々は、洪庵先生や諭吉先生の志をさらにさらに輝かせる責任があるのではないだろうか。

(2007年5月号掲載)

(終わり)