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社 中 の 心


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社中の心 目次へ

市居 嘉雄
(昭和29年 経)
2006年4月号〜6月号

第1話

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(上の巻)

第2話

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(中の巻)

第3話

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(下の巻)

2006年
4月号

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(上の巻き)

関西合同三田会が開催されると、歴代塾長や服部連合三田会長のご挨拶の中で、福澤先生と摂津三田とのつながりについて話をされることがある。そこで、それらの関係について、明治維新前後の三田藩と九鬼藩主の状況から見ていきたい。

そもそも三田藩主の九鬼家というのは熊野水軍で鳴らした志摩の出で同地の名族である。九鬼嘉隆は関ヶ原の勲功により鳥羽五万五千石の大名となったが、その二人の息子が争ったため、寛永十年に幕府裁定によって隆季が綾部二万石に、また久隆が摂津三田三万六千石に移封され、それぞれ明治維新まで続くことになった。

三田藩十三代最後の藩主九鬼隆義(一八三七〜九一)は天保八年、綾部藩主で名君の誉れ高い九鬼隆都(たかひろ)の三男に生まれ、書道や道徳を熱心に学んだ。安政六年二十二歳の時、三田藩主隆徳が亡くなった折に養子となって跡を継いだ。

三田藩主となった隆義は、英邁で卓識があり性格は果断に富み、一切の旧式を廃して人財を登用した。最初に儒官白洲退蔵を抜擢して藩政に参与させたことで、西洋の文明を藩内に広める先駆けになったという。

ここで少し白洲退蔵(一八二九〜九一)について触れる。白洲家は元禄時代から歴代儒者役として三田藩主九鬼家に仕えた家柄である。彼は十七歳で大坂の儒者篠崎小竹につき、のち江戸に出て儒学を修めた。父とともに藩校教授となり大小姓役をつとめ、安政七年に藩主九鬼隆義に抜擢され、藩政改革と西洋兵制を献策した。浦賀への米艦来航を偵察し、外国事情の探索にもつとめた。以降の彼の業績については後述する。

幕末当時、兵庫県下には十八藩もあり、小藩が分立している上、天領・旗本領が錯綜して幕府勢力の色濃い地域だったといってよい。摂津の中で唯一の外様大名三田藩は当初佐幕派を標榜していた。だが時流を見るに敏であった家老白洲退蔵は薩長派公卿らと接触し、藩内を倒幕にまとめるのに成功。江戸に赴いて藩主隆義を懇々と説得し、何とか戊辰戦争前に薩長側につくことができたのである。

一方で、三田藩の進路に大きな影響を与えたのは、慶應義塾の創始者福澤諭吉先生(一八三四〜一九〇一)と九鬼隆義との出会いである。これは三田町出身で旧開成所(現東京大学の前身)の教授となった川本幸民と福澤先生の交友関係を通じて始まったのであるから、どうしても幸民(一八一〇〜七一)の人物像に触れておかねばならない。

川本家は幸民の四代前から代々藩医として三田藩に仕えていた。幸民(幼名敬蔵のち周民・養徳とも称す)は江戸時代末期の国家激動期に、三田藩きっての秀才を藩主隆国に見込まれて江戸に派遣され、非凡な才能と緒方洪庵ら蘭学者達との人脈にも恵まれて、西洋医学を習得することになる。

やがて蘭学者として郷里の藩校や広く大衆に西洋文明を紹介する一方、化学の先駆者として我が国初のマッチの発明・ビール醸造の成功や写真機製造などで名を馳せた人物である。それまで舎蜜(せいみ)学と呼ばれていた学問を「化学」という言葉に訳したのも幸民であった。

今年一月と三月の十数日間、キリンビール神戸工場において、川本幸民のビールが復元・試飲されて話題となったのは記憶に新しい。

(つづく)

2006年
5月号

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(中の巻き)

話を文久三年(一八六三)に戻す。その年の六月、幕府の奥御医師に任じられていた緒方洪庵が五十四歳で亡くなった。もともと身体の弱かった洪庵には激務がたたった。同じ幕府に仕えて得がたい親友の死を聞き、近くの群書調所に勤務中の川本幸民は直ちに馳せつけ、洪庵の妻八重さんを慰めた。八重夫人は三田の隣村名塩の出身である。

洪庵の通夜の席には、洪庵の高弟である若き福澤諭吉や、同じく高弟で諭吉より十歳以上年長の村田蔵六(のち大村益次郎・明治維新の軍政家)らもいたが、ふとしたことから二人の間で激しい口論が起こった。その時二人の間で仁王立ちになって仲裁したのが幸民である。

それから三年後の慶応二年、幸民は若い藩主九鬼隆義に、画期的なスナイドル銃(元込めで銃身内につる巻き線の溝賀ある)を藩士全員のため購入するよう建策し、藩主に容れられた。

慶応四年(明治元年一八六八)戊辰の年を迎え、正月三日に鳥羽伏見の戦いが始まった。幸民は自身が幕臣のままで江戸に留まっていては三田藩に悪影響を及ぼさないか心配していたが、上野の彰義隊は僅か一日で敗れたので、その年七月、幸民は五十八歳にして三十三年ぶりに再び故郷三田の地を踏んだ。そして、まず英蘭塾の開校にとりかかった。

明治二年六月、三田藩は版籍を朝廷に奉還し、藩主九鬼隆義は藩知事となって新たな決意のもとに民政に臨んだ。特に隆義は新時代に対応する方策として、川本幸民と嗣子清次郎(のち清一と改名・開成所英学教授)の英蘭塾を充実させた洋学校の設立を急務と考えた。

幸民の弟弟子である緒方洪庵は福澤先生の師である。師の洪庵も一目置いていたこの先達を福澤先生は大変尊敬し、しばしば学問上の相談を寄せていた。次第に二人の仲は深まり、ある日幸民は諭吉を隆義に紹介したというわけである。幸民が予期した通り、隆義は諭吉と意気投合し、その関係を生涯大切にした。

隆義は福澤先生の強い影響を受けて、藩内の一般男子に洋服を着用させ、牛肉を常食、洋書を通読させたほか、洋式操練では最も進んでいたといわれる。

また、洋学校は福澤先生の賛同を得て、洋書・機械類を横浜の丸屋(現丸善)から購入するなど、関西における洋学の先駆けをなそうとした。しかし、その年十一月に藩内で起こった百姓一揆で洋学校設立は消滅してしまった。後年、これが三田学園となって実を結ぶ。

明治三年、福澤先生は隆義に『世界国尽し』一冊を贈って、「領民騒擾いたしたのは無知無学の致すところ如何ともすべからず、今この貧民を救わんの策は金を与えるよりは、知識を研き見聞を博するための書を読むを専一とす」としたためた。これによって隆義は丸屋より『国尽し』一冊金壱両壱分を二百冊買入れ、領内の郷学校・市学校に頒けた。この後も九鬼隆義と福澤諭吉の関係は続き、慶應義塾の規模拡大に必要な資金について福澤先生は隆義にしばしば援助を依頼したという。

明治四年、三田藩知事九鬼隆義は早くから時世の推移を看て取り、各藩に率先して帰農を奏請したのは、福澤先生の思想を受けたもので、七月に廃藩置県により藩知事を免ぜられた。

同年三月、福澤先生は慶應義塾を新銭座から三田に移した。作家の司亮一は、「福澤が三田の地名に親近感を覚えたのではないか」といっている。その年六月、川本幸民は六十一歳で亡くなった。その頃、旧三田藩から慶應義塾に入ったのは前田泰一・武藤敬蔵・澤茂吉・川面弘らである。

(つづく)

2006年
6月号

『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(下の巻き)

明治五年四月三日、福澤先生は神戸に着いた後、有馬入湯を兼ねて三田を訪れた。この時の旅装はコウモリ傘を片手に小紋の羽織、パッチ尻端折という至って軽装といえるもので、三田町内で西洋小間物店に立ち寄り、西洋酒のビンを出させて「ベラベラ」と張り紙を読み一ビンを買って行かれたと、三田町民は珍しそうに話し合ったと言う。

三田町で福澤先生は九鬼邸に一泊しただけで、有馬温泉には十四・五日も逗留された。この時、隆義は廃藩置県後の処世術を福澤先生に尋ねた。福澤先生は「すこぶる米国贔屓で官吏を罵倒し、商人は人間の取るべき自由の生活法である」と奨励されたので、隆義はその資本主義的近代精神を容れることにした。これが旧三田藩内の世論となって、一人も官吏を目指す者は無く、皆「帰農帰商」を志すこととなった。

その年十一月、隆義は福澤先生の助言に従って、将来発展が予測される開港されたばかりの神戸に赴くべく、正金二十五万両を持って三田町を発った。隆義は夫人の園子や一男二女を伴って神戸花隈四ノ宮通りに地所を買い、別邸宣春園に移った。殿様付きの面々もそれに随い、家産一式を売却して一斉に兵庫・多聞前・神戸・花隈周辺に引越した。店舗を開く者や商工業に従事する者が多数にのぼり、三田の屋敷町での士分在住所は僅か十数戸を残すのみという寂れようだったといわれる。

一方、明治四年から行われていた波止場と生田川付け替えの大工事では、三宮周辺の地所の買い占めによって、九鬼隆義と小寺泰次郎ら旧三田藩主従が巨富を得るところとなった。

また、隆義は福澤先生から商業の有利性を聞かされ、一身の独立のための転身を勧められていた。そこで、隆義以下改革派の白洲・小寺ら十六名が社基となって明治六年三月、神戸栄町三丁目に「志摩三商会」を開業することとなった。志摩は九鬼家発祥の地、それに三田町の三を付けて社名とし、神戸初の輸入商社となった。

看板には「医学西洋並ニキカイ所」と書かれ、外国の医薬品を中 心に食料品・雑貨・薬種などを販売したが、神戸では当時志摩三商会しか無かったので、当時の文明開化の動きとも相まって商売は繁盛した。福澤先生もこの商会の発展を期待して、「志摩三商会のご商売は如何か」などと励まされた。

その後、前述の生田川尻地の買い占めで得た巨利を経営基盤としたので、商会の経営は順調に推移した。しかし、栄町五丁目への本社移転や大阪支店開業の一方、支配人の死去・交代や白洲退蔵の退社・官界入りがあって、以後の経営は事業縮小に追い込まれ、明治二十五年には商会は九鬼家に収められてしまう。

白洲が退官して九鬼家の執事に就任してから、神戸市内の所有地が神戸の発展に伴って高騰したことで得た巨富により、旧三田藩子弟のための九鬼子爵奨学金制度が設立された。

隆義は営利事業のみに熱中せず、長女の死去を機に一家で神戸在住の米人宣教師と知り合い、キリスト教に強い関心を示した。この影響で多くの三田出身者がキリスト教に入信した。明治八年に神戸山本通りに三田旧領の子女の教育のために開校した「神戸ホーム(のち神戸英和女学校)」が今日の神戸女学院の前身である。

明治十五年、隆義は上京し宮内省に勤務した。隆義自身の受洗は晩年の同二十年神戸教会においてである。同二十四年二月、九鬼隆義は五十五歳で永眠した。

隆義が没するまで、福澤先生は旧中津藩主の奥平家の世話をするのと同様に九鬼家の事業に気を配り続けた。  なお、福澤先生から九鬼隆義知藩事への書簡類は、現在慶應義塾図書館に所蔵されている。

(終り)